薄暗い室内は、白々と明けはじめた朝の陽光さえも撥ね付け、差すことを拒んでいた。
魔方陣が浮かび上がる床上に、幾つかの足音が響く。

ひとつは、床に靴底を打ち沈めんばかりに重く、強い足音。
そしてもうひとつは、爪先でカリカリと細く不快な足音を発している。

それは彼らを使役する主の下から外界へ目指す、男たちのものであった。

この広大なる部屋の持ち主―――碇ゲンドウは、保安諜報部に所属する二人の男を呼び寄せ、密命を与えた。

彼の息子でありサード・チルドレンの碇シンジが、数時間前にMAGIのログにロストを記録してから、とうとう夜が明けてしまっていた。
それと同時に、ファーストチルドレン・綾波レイもターミナルドグマより消失してしまっている。

「……シンジが、レイを皆殺しにしたと云うのか?」
「わからん。 だが、ドグマにはレイの容れ者がひとつとして残っておらん」
「あれがそうまでするとは思えん……。やはり何者かが手引きしたか」
「恐らく、な」

ゲンドウと冬月は、現時点での手元にある幾つかの情報―――今朝になって、裾野のATMより碇シンジ名義の口座から少なくない額の現金が引き出されていた事、そしてパイロット用更衣室にあった筈の綾波レイの衣服が消失している等の事柄より、綾波レイの生存とそれに伴う碇シンジの同行を仮説づけた。

そもそも、チルドレンにはその替えが効かない性質上、手厚い警護の手と厳しい監視の目を常に光らせておく必要があった。
Nervに相対する反抗勢力の手から守るために、チルドレンの監視には特に腕利きの諜報部員が常時ひとりずつ、あてがわれている。

ゲンドウ達が重く見たのは、それらの目を掻い潜って、シンジ達が姿を消した事にあった。

シンジの動向を逐次監視していたはずの諜報部員はこの件により即時更迭し、今は独房にいる。
その代役として、異彩揃いの諜報部の中でも、とりわけ有能であるが異端と称される彼らを呼び寄せたのだ。

計画に欠かせないパーツであるチルドレンがふたりも行方不明となっている。
この事実が明るみに出れば、SEELEの老人達の追及は勿論、反抗勢力に付け込まれる可能性だってある。

ゲンドウ達はひとまず大々的な捜索は控え、彼らの様な裏の仕事を生業とする者達に任せる事にしたのだった。






2月5日では遅すぎる 第7話 「この道を抜けろ」

NEON GENESIS EVANGELION
February the Fifth is Too Late:07 "encounter"






――ATMで口座からお金を引き出した僕は、河口湖付近で足止めを食っていた。
第3甲府市へと続く御坂トンネルが、相次ぐ使徒侵攻の影響により落盤していて、通行規制が行われていたんだ。

もう、日が高くなってきている。
僕はハンドルに半身を預けて、ため息をついた。

水没した都市が多い東海道を避けて、北陸から回り込むルートを選択した僕だったが、初めから躓いてしまった格好だ。

僕の傍らでは、中学の制服に身を包んだ綾波が、静かに寝息をついている。
日向さんと別れた僕は、ひとしきり距離を稼ぐと、懸案だった事項にケリをつけるべく山間部の路傍に車を停めた。

すなわち、バスタオルの下は一糸纏わぬ綾波に、何とかして服を着せなければならなかったんだ。

これは周囲が夜の闇に包まれている内に、やり遂げた方がいい。
夜が明けてしまうと、色々な面に於いて非常に危険な事になってしまうからだ。

僕は目隠しをした上で心の中でごめんなさいごめんなさいと言い続けながら、綾波からバスタオルを脱がして、ボストンバッグを漁ると、下着を穿かせ、ブラウスに腕を通した。

ジャンパースカートを穿かせるため、綾波の腰を浮かせようと抱え上げたところで、綾波のひんやりとした肌と、溶けてしまいそうな柔らかさに……鼻血が出そうになったけど、何とか理性を保って……今の状態にまでこぎ着けたんだ。


……ブラは止め方が分かりませんでしたごめんなさい。


延々と続く車の列。
中には、そうした渋滞を当て込んで、商売に走る人々もいるほどだ。

「……なんだぁ?
 子供が乗ってンじゃん、まァいいか」

無視したかったんだけど、あまりにもしつこく窓ガラスを叩き続けるもんだから、渋々応じた僕に、少し驚いたような声が掛けられた。
籠を抱えて、果物売りを自称する日焼けした男の子は、麦藁帽に快活な語り口で、どこかトウジを思い起こさせた。

彼とその家族は、こうした使徒被害の渋滞を見つけては、野菜や果物を売り歩いている行商一家らしい。
物売りの彼は、子供の運転者である僕に好奇心をくすぐられたのか、やけに話し掛けてきた。
彼らのプロフィールも、そうした会話の中から得た情報なんだけれども。

とはいえ、僕らの旅の理由を話すわけにはいかない。
さらに言えば、今頃Nervは僕らを血眼になって捜索しているだろう。
いつ、僕らの足跡が捕捉されるか分かったもんじゃないんだ……

果物売りの男の子と接触を持った事を今更ながら少し後悔すると、僕は幾つかの果実を買った上で彼にお引取り願った。


……が、数秒後。
彼は再び僕らの乗る車まで戻ってくると、今度は助手席で眠る蒼い髪の女の子とねこさんについてあれこれと詮索し始めた…。

まったくもう…、こんな時に!






永いまどろみから抜け出すと、彼女は白い壁に四方を取り巻かれた空間にいた。
薬品の匂いが鼻を微かにくすぐり、まだおぼつかない視界の半分は、窓から洩れる陽光の日差しに眩しく塗り潰されている。
一見するに、此処は病室である事には間違いないだろう。

「――……………」

身を起こしてみる。
軽い、頭痛に頭を振る。
どうしても前後の記憶の辻褄が合致しない。

確か、確かに私は彼と…――日向マコトと車内にいた筈なのに。
葛城ミサトは、この殺風景な部屋に居る理由がみつからず、暫し沈黙する。

だが結局のところそれは、数分の猶予も与えられずに終了とされる。
病室のドアを開く者が現れたからだ。

ミサトの病室に足を踏み入れたのは、黒ずくめのNerv保安部員だった。



VTOLに載せられたミサトは保安部員に警護されつつ、Nerv本部へと帰頭する。
彼女は、第3新東京市のとある医療機関に保護されていたというのだ。
――実際には、警護というよりは逃亡防止のための監視、といった風情であったが――ミサトの隣席の保安部員は、状況を知りたがる彼女の質問には殆ど答える事はなく、ただ……

「現時点での、貴女にかかる容疑がクリアされたからです」

との、何とも要領の得ない言葉を返したのみであった。

返却された腕時計は、午前10時を回っていた。
保安部員に随伴され、長い回廊を歩くミサトの脳裏に、ひとりの人物の姿が浮かぶ。

日向マコト。

彼とミサトは、共にある事柄に対する密偵を進めていた。
そしてその中で、彼らは自身が所属する組織が、如何に彼らの認識とはあまりにも逸脱した信じ難い目的を持って邁進している事を、彼女の恋人が遺した情報、そして幾つかの示唆により、おぼろげながら掴む事となる。

そして昨夜を目処に、ある目的に基き、行動を起こすべく最後の打ち合わせを行おうと市内の某廃屋に足を踏み入れたところで、彼女の記憶は途切れる。

この状況より導き出される結論は、日向は確実に彼の言う作戦通り「行なった」こと、
そして―――
自分はその行動の外に強制的に退出させられたおかげで、容疑から逃れたという事だった。

ミサトは知らずに唇を噛んでいた。

何故なら、加持の時と同様、こうして自身が再びNervに復帰できるという事は、すでに日向マコトという存在は彼らによって処理された可能性が極めて大きいと言えるからだ。


どうして。

また、……私だけ!


強く瞑目したミサトは、今も病棟に廃人同様の姿で横たわる、赤毛の少女を思い浮かべた。


「本当に、これでよかったの?……――――」






UNとマーキングされたヘリが、県境に程近い山岳地帯に差し掛かる。

後部席には、黒ずくめの巨漢が佇んでいる。
長身にして大柄、実に立派な体格を持つ男は、名を九頭と云った。
質実剛健であり寡黙なこの男はNervの諜報部に在籍し、以前はサードチルドレン・碇シンジの身辺警護を請け負っていた経歴も持つ。

九頭は任務遂行を絶対の是とし、その遂行に手段は問わぬタイプであった。
それ故、冷徹で機械的な印象を周囲に与えるこの男は、いつしか殺しの仕事のみ任されるようになっていった。

九頭が黒いサングラスの奥で、僅かに視線を横に遣る。
その方向には、彼と同じく密命を帯びた、もうひとりの諜報部員が背中を丸め、にやついた笑いを顔に貼り付かせていた。

その男とは、九頭とは全くもって印象を異にする男、七尾のことであった。
九頭と同じく黒ずくめのスーツに身を包んだこの男は、単身にして痩躯、ありていに言えば小男の部類に入る。
そして、―――少なくとも九頭には―――理解しがたい思考回路の持ち主であった。

七尾は僅かの期間中であるがファーストチルドレン・綾波レイの身辺警護を受け持った過去があった。
だが、やや特殊な性癖・嗜好を持つこの男は、綾波レイに強い関心を示し、身辺警護というよりは監視、監視というよりは良からぬ思念を以って、レイの生活を任務以上の範囲で視続けたのだ。

その異常性ゆえに早々に任を解かれたが…―――久々に大っぴらに綾波レイ、あの少女に近付ける大義名分を得た七尾は、ただ任務をこなすだけでは飽き足らぬ、自身に渦巻く黒い思念を解放できるやも知れないという歓喜に暫し身を打ち震わせていた。


先日の使徒襲来の折、線路に甚大な被害を抱えたリニア鉄道は運行を停止しており、残る移動手段は空路か陸路。
空路は昨夜の事件のさなかに不審なヘリを撃墜した。残るは陸路のみである。

交通規制という緩やかな非常線を敷いた彼らは、目標を南東へと絞り、一路ヘリを向かわせていた。

墜落した誘拐犯のヘリは、第2東京市などの北方ではなく、東海道に向けて飛行していた。
奴らの目的地は西方にあると見て間違いないだろう。
陸路も使える道路が非常に限られて来ていたという現状が彼らに味方し、県外へと続く道の特定は容易い。

此処で県境に急行し、北陸あるいは東海道へと分かれる直前の道を押さえておけば、サードチルドレン達を誘拐した一団はこの地より逃れる事は出来ない。


クク……ッ


七尾は、唇の端を込上げる下卑た笑みに醜く歪ませると、本部を出る際に九頭に言い放った言葉を反芻していた。

『いぃ〜か、デカブツ。 誘拐犯やら司令のお坊ちゃんはテメェに任せた。
 俺ァ、あの嬢ちゃんしか眼中にねェからなァ…?』






じりじりした暑さと喉の渇きに耐えかねた僕は、焦る気持ちを落ち着かせるために、舗道に降りて300メートルほど先のガソリンスタンドへと行く事にした。

運転席から降りると怪しまれるかも知れないので、一旦後部座席に移って、そこからドアを開ける。
できる事なら人目に付きたくない。
あたりに警戒の目を配り、強い日差しに目を覆う振りをして、スタンドへと歩いていった。

スタンドには僕と同様に長い渋滞に飽きて、ぼんやりと一服を嗜んでいる人たちで溢れかえっていた。

普通、こういった場所には飲み物の自販機が常設されているものだけど、此処の近辺のスタンドは渋滞がしょっちゅうな所為か、ちょっとした食料や土産物まで売っていて、サービスエリアもかくや、といった充実振りだった。

これ幸いとばかりに飲み物とおにぎりやサンドイッチをかごに詰め込む。
視界の端には、“2月1日 午前11時20分”と表示されたNerv謹製の掛け時計やタペストリー、変装グッズやパーティー用品なんかも並んでいる。

(そういや、ネルフ饅頭なんてのも、あったっけ)

レジに並ぼうと首を巡らせた僕は、その視界に思いがけない人物の姿を映すことになる。



スタンドのガラス壁の向こう、渋滞の列を縫うようにして歩く男の人の姿が、視界の端にフレームインした。

焼けつくような日差しの中、黒のスーツに黒のサングラス。


あれは。

あの姿は…―――!!


遠くで、ヘリのローター音が鳴り響いてる。

喉はカラカラに渇いて、視線は釘付けに。

足は棒みたいに固まって、全然動いてくれない。


ぼくは、知っている。

あのひとを、みたことがある。


――いつか、綾波の部屋に行った時のこと。
帰る途中に偶然、綾波の監視員らしき男の人を見掛けた事があった。

ちょうど、こんな風に黒いスーツで黒のサングラスで。
そしてなにより僕があの人のことを忘れられなかったのが、小さい背を更に丸めて、駐輪場の端から薄気味悪く綾波の部屋を見上げて笑ってたんだ。

あの横顔が、とても怖かった。

あの人が、保安諜報部員の人がここに来ているという事は…―――


「僕らを、追ってきたんだ……」


ドクン。


心臓が、殴りつけられたように激しく痛む。

僕は、レジの順番が回ってきた事も分からずに自失していた。


そして………


(こっちに……来る!?)


ガラスの壁面の向こうで、居並ぶ車たちの中を覗き込んでいた小男の保安部員が、この建物――スタンドの方へとやってくるのが見える……!

額といわず、全身に脂汗が噴き出す。

スタンドの出口はドアひとつだけ。
ここで慌てて逃げ出したら、たちまち捕まってしまう。

かといって、狭い店内には逃げ場所となるべきスペースなんてどこにもない―――!!

「……ぁ……ぁぁ……ぁ」

ガタガタと震えが止まらず、お釣を受け取る手にも力が入らない。
僕は、咄嗟のうちにレジに忍ばせていた帽子を取り上げ、目深にかぶる。


ドアが、開いた――――


「………っ!」


僕は、レジ付近の地図が差し込まれている什器の陰に反射的に身を隠した。
小男は、背広の内ポケットに手をやり、手帳を引っ張り出そうとしていた。

「そこのオマエ、こんな娘、来てなかっただろうな」

小男は、レジの店員に自分の手帳の中身を見せている。
多分――綾波の写真を見せてるんだろう……。


(――今―――だ…――――!)

僕は、この隙に小男に背を向けた格好で、スタンドのドアをくぐり抜けようとする。

そこへ。










「おい、そこのボウズ」










息が止まった。



小男は、明らかに僕に対して声を発していた。







+続く+





+次回予告+


次回、2月5日では遅すぎる  #8 「想いの果てに」




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