くすんだ赤い文字が揺らめくプレートの下、僕がドアに手をあてると、それが当たり前であるかのように錆だらけの扉が横にスライドした。 開かれた扉の向こう側は、薄暗い闇の中に青白い光が沈殿していた。 「……―――」 僕は意を決して、室内に足を踏み入れる。 一歩、また一歩と進んでいく毎に、床に積まれた埃や粉塵が舞い上がって、青白い光の中を取り留めなく舞うのが見える。 此処は、普段あまり使用されていない施設のようだ。 僕は、向かって左手の奥に、この部屋をうす青く浮かび上がらせている光源の存在を認めた。 それは、巨大な水槽だった。 幅10m近くあるかも知れない、かなり大きな水槽のガラスが、青いライトのかすかな光を床に向けて、静かに照り返していた。 熱帯魚を置いてあるペットショップって、こんな感じだったかも知れない。 でも、部屋の一角を占めるこの巨大な水槽には、肝心の熱帯魚も、何もいない。 ただの水に満たされた容器の片隅に設えた管が、定期的に空気を吹き出し、泡立つ音が聞こえてくるのみ。 「………(ふぅ…)」 なにか、恐ろしい怪物と出くわすんじゃないかと思っていた僕は、身体いっぱいに張り巡らせていた緊張と警戒を、若干の安堵と共に緩めた。 この第3新東京市にやって来て以来、ひと通りのコワイ目には遭ってきたつもりの僕だけど、此処に至るまでの道程はまさしく、ゾンビや怨霊が跳梁跋扈するホラー系ゲームのそれと酷似していて、我ながらよく逃げ帰らずに此処まで来れたと驚くほどに、生きた心地のしないものだった。 でも、ヒトというのは因果なもので、ひと心地つくと僕の意識は、今度は此処にいる根本的な疑問―――なぜ、僕はこんな所に来なきゃいけなかったのか―――について考えるようになってしまう。 そして、僕というひ弱でネガティブな人種の思考は決まって、此処に呼び出されたのはチルドレン誘拐とか抹殺だとか、そういった方向に行き着いてしまうのだ。 (ど…どど……どーしよ……) 背筋に、いやな汗が流れる。 此処まで来れたはいいけど、無事家に引き返せる自信なんて、ありはしない。 再び震えだした爪先、笑い出す膝に折り合いを付ける間もなく、その声は僕の背後より掛けられた。 「やぁ、早かったね。 ……シンジ君」 NEON GENESIS EVANGELION February the Fifth is Too Late:06 "THE VOICE OF FATHER" 背後の薄闇に浮かび上がった人影は、男の人のそれであり、また、その声は僕が確かに聞き覚えのある種類の声質だった。 Nerv指令部オペレーターの、ベージュを基調とした制服に身を包んだ、眼鏡が特徴的な青年…―――日向さんが、そこにいた。 「驚かせてしまったかな……? 本当は迎えに行きたかったんだけど、まぁいろいろあってね」 こんな所に呼び出して悪いね、とすまなそうにしている日向さんを前に、僕は多分、ポカンとした顔をしていたのだろう。 日向さんは僕の背に手を当てて、部屋の奥にある扉の前へと導いてくれた。 「……時間がないんで、ゆっくり順序立てて説明できないのが申し訳ないけど……、 まずはシンジ君、今日の使徒との戦闘で、……零号機が、その…―― ああなったのは…… 覚えてるよ…ね?」 「あ……―――」 僕の視界が、やにわに滲む。 日向さんの言葉を引き金に、記憶のフォルダから、あの……信じたくない光景―――恐ろしく静かな、それでいて無慈悲なまでに鮮やかな光の洪水。零号機が、綾波が自爆した時のあの映像が引き出され、今まさに僕の脳裏にまざまざと再生される。 あの時、あの光景を思い出しただけで僕は、もう平常心でいられなくなってしまっていた……。 歯が小刻みに音を立てて、悪寒に襲われたように激しく震えだす。 両目からは、自分でも気付かない内に熱い滴が溢れ、頬を伝っていた。 僕に気を遣って、直接的な表現を使っていない日向さんの言葉でさえも、僕はこんなに酷く動揺してしまう。 日向さんは、そんな僕の肩をしっかり掴んで、気をしっかり保てるまでずっと……励まし続けてくれた。 「あや…なみ…は……、 ……綾波は……やっぱ…り……?」 やっと気を落ち着かせた僕は、恐る恐る傍らの日向さんを見上げる。 「その事なんだけど…… 実はねシンジ君。 ……落ち着いて、聞いて欲しいんだ」 ミサトさんや日向さん達は、夜遅くまで綾波の、生存者の捜索を必死に続けてくれていたはずだ。 でも、僕はあの時……この目で見たんだ。 A.T.フィールドの内側で、綾波が使徒と一緒に吹き飛んだのを。 恐らく……綾波は、助かっては……いない。 日向さんは、その事を僕に伝えるために此処に呼んだんだろうか。 けど、次に日向さんの口から紡がれた言葉は、とても意外なものだった。 「レイちゃんが、……見つかったんだ」 僕は、息を呑んだ。 「…………え…………」 思わず訊ね返した僕は、日向さんが発した言葉を頭の中で咀嚼し、その言わんとするところを理解するのに暫し時間を要した。 いま、日向さんは、なんて言ったの……? 呆然とする僕に顔を近付けてから、日向さんは柔らかく微笑むと、ゆっくりとこう告げた。 「彼女は無事だよ、救助されたんだ」 なんで……… 一体、どういう……… 頭の中が真っ白になっていく僕にもう一度微笑みかけると、日向さんはゆっくりと僕の傍から離れ、薄闇の壁面に設置されたコンソールを操作して、僕の目の前の扉を開け放つ。 「!!」 そこには……――――信じられない光景が、広がっていた。 訓練でよく使う擬似プラグの様な透明のカプセルの中に、L.C.Lが満たされていて、その中で静かに起立している少女―――それはまさしく、あの……綾波だったんだ……。 「…ぁ…! …ぁ……あ…!!」 視界がにじむ。 駆け寄ろうとした足がもつれる。 前のめりに転倒する。 叫び声を上げたかった。 でも、声にならない。 言葉にならない。 ただ、ただ荒い息を上げ、 声なき声を上げて…… 膝立ちのまま、まるで咆哮するように僕は、泣いた。 夢じゃなかった。嘘でもなかった。 静かに泡を吹き出しているカプセルの中で、眠るように瞑目している綾波の足元にすがりついて、泣きじゃくっている僕の肩に手を置いた日向さんは、ミサトさんから預かっている物があると言って、部屋の片隅に置いてあったボストンバッグを指差した。 「中には、彼女の着替えとタオルが入ってる。 悪いけどシンジ君。 ……此処からは、迅速に行動しないといけないんだ」 「あの……。 どういう……ことですか」 日向さんの言わんとする事が分からず、聞き返した僕に立ち上がるよう促すと、 「詳しい話は後にしよう……。 とにかく、彼女を連れて早く此処から出るんだ」 カプセルの傍らの端末に向かった日向さんが、幾つかボタンを操作する。 すると、綾波の居る器よりL.C.Lがみるみる消えて、やがてゆっくりとカプセルの前面が開いていく。 「わっ、ととと……」 僕は、倒れかかって来た綾波を抱きとめる。 そのひんやりとしていて、何よりやわらかい感触を全身に受けて、今更だけど彼女が一糸纏わぬ真っ裸であることを再認識し、顔が火が吹き出したように熱くなる。 「シンジ君! 急ごう!」 まるで、急かすように僕を促す日向さんの声に我を取り戻した僕は、バスタオルで綾波を包むと、肩にねこさん共々抱きかかえて彼の後を追って走り出した。 僕らが向かった先は、施設付近の兵装ビルの屋上だった。 ヘリポートを兼ねたその場所に到達すると、既にヘリがローターを回しつつ待っていた。 激しく吹き上がる風に少し圧されつつも、僕らは先にヘリに乗り込んだ日向さんの後に続いて、後部シートに身を滑らせた。 「…………! ………………!!」 日向さんがヘリのパイロットに何事か告げると、程なくして機体は離陸を果たす。 バスタオルにくるまったまま瞑目して眠り続けている綾波を支えつつ、僕は運転席の二人の緊迫した面持ちを眺め、何処か不自然な感覚を覚えていた。 それは、遠からず間違ってはいなかった。 ヘリはジオフロントを抜けて、さらに第3新東京市を後にして、三国山上空にまで達していた。 どうして、このヘリはわざわざ街の外へ行くんだろうか。 チルドレンを保護するという意味においても、第3新東京市より外へ出す事は得策ではないはずだ。 ましてや、綾波が見つかったんだから、しばらくジオフロントの病院に入院させて治療に当たらせるべきなのに…… 「……――あの、日向さ……」 おそるおそる発した僕の問い掛けを、後方より響く幾つかの轟音がかき消した。 「来たぞ!」 短く、そして鋭く発せられた日向さんの声に弾かれたようにヘリはその挙動を激しくし、一層の速度を上げて空域より離脱を図る。 振り返る僕の視界には、この機体と同じくNERVと白くマーキングされた軍用ヘリが、まるで僕らの機体を追跡するかのように速度を上げてきている。 「日向さん!これは一体!?」 「掴まっているんだ!シンジ君!」 後方から、機銃が唸りを上げる音が聞こえてくる。 刹那、白い閃光が瞬き、機体の傍らで爆ぜる。 訳も分からず、叫びつつ僕は綾波とねこさんを反射的に抱きかかえる。 キャノピーからのぞく眼下の地表が、みるみる近くなる。 綾波の頭を胸に抱え、振り返る僕の視界に、機体の後部から黒煙を噴き上げているのが映った。 ――まさか……撃ち落された…… 脳裏によぎる、驚愕と恐怖に裏付けられた絶望的な思考を肯定するように、僕らの乗ったヘリは山間部に不時着した。 「いったい…… どういう事なんですか」 黒煙を上げ続けるヘリを背に、僕は携帯型の端末を操作している日向さんに訊いた。 自爆した綾波が生きていたかと思えば、僕らの乗るヘリが同じNervの軍用機に撃ち落され、今は山間を徘徊している…―― 僕はまったく事の成り行きが理解できず、当惑しきっていた。 「さっき、攻撃してきたのって、Nervの……」 「そうさ」 端末を操作する手を休めず、日向さんは僕の疑問を事も無げに肯定した。 そして、信じられない事だろうけど……、と前置きした上で、 「……君たちは、彼らから……、特務機関Nervの手の内から逃げ延びないといけないんだ」 「え………」 僕は、返す言葉を失った。 どうして、そんなことをする必要があるの? 何故、僕らはNervに追われなくちゃいけないの……? 日向さんの口から紡がれた言葉は、俄かには信じ難い、衝撃的な事ばかりだった……。 「……葛城さんと僕は、ここ数ヶ月、僕らの所属する特務機関Nervの実態について、内密に調査を進めてきたんだ」 サードインパクトを引き起こす使徒に対抗するために組織された国連直属の非公開組織、特務機関Nerv。 しかし、その真の目的は別にあると、日向さんは告げた。 「碇司令達は…… 自分達の手で、サードインパクトを起こそうとしている」 「なッ……――!?」 「司令たちは“人類補完計画”と名付けているけど、実際はサードインパクトを起こして……人類を破滅させるつもりなんだ」 「そんな事……どうして……」 僕たちはサードインパクトを回避するため、人類を滅亡から救うためにこれまで戦ってきたんじゃないのか。 どう考えたって、矛盾している……。たやすく、信用できる話ではなかった。 「……信じられないかい? シンジ君……。 だけど、碇司令達……そして“SEELE”の目論む計画の話は、初耳じゃないだろう?」 「!!」 僕の記憶の階層の内に、強い衝撃と共に印象付けられた出来事が、日向さんの言葉によって導き出される。 ミサトさんと共にジオフロントの最深部で目撃した、磔にされた巨大な使徒―――それを見た数日後、僕は車中の加持さんに水族館へと連れられて、Nervの事、そして“SEELE”の計画について、話を受けた事があった…… ―――「君のお父さんは、これから起こる全てのことを知っているはずだ。 そして、セカンド・インパクト。おそらく、あの事件があの日起こる事も予測していた」 「そんな…… でもなぜ……?」 「“SEELE”。 ……君のお父さんの背後についている組織の名称だ。 そのSEELEが所有し、彼らの教典ともなっている“死海文書”。 それに基づき、SEELEと君のお父さんはある計画を立てた……」――― 「それが…… “人類補完計画”……」 あの日の情景を思い出していた僕は、あの時覚えた戦慄に身震いするのを抑えられなかった。 「……そうさ。 そして……ファーストチルドレン・綾波レイは“人類補完計画”遂行の為の触媒にならないといけないんだ」 「……!?」 「酷な話だけど……彼女は、人類破滅の生け贄に……なるんだ」 「……そん……な……」 頭の中が真っ白に白濁する。 綾波が…… 綾波は……何も悪い事をしていないのに…… せっかく、助かったのに…… 命を絶たれないと…… いけないの……? 自身が身を置いていた組織の真の目的、そして綾波の身に待ち受ける残酷な運命を聞かされた僕は、足元がガラガラと音を立てて崩れていくような感覚に襲われていた。 「だから……『僕達』は君らを救いたいんだ」 優しく、そして力強く日向さんは告げると、へたり込んでいた僕の手を取り、立ち上がらせた。 「救う……?」 「Nervに所属してる僕が言うのもなんだけど…… この組織は此処に至るまでに随分と強引なやり口で運営を進めて来ていて、反感を持ってる勢力も少なくないんだ。 その内のひとつが、人類補完計画の、NervやSEELEの真実を知ったら……? 当然、阻止に動く筈だ」 日向さんは、端末を手に山道を歩き始める。 未だ目を覚まさない綾波をおんぶして、僕も後を追った。 「Nervの調査を続ける内に、葛城さんと僕はある抵抗勢力を統べる方とコンタクトを取る事が出来たんだ……。 彼の元にまで逃げ遂せれば、あるいは……――シンジ君達も、人類も、破滅を逃れられるかも知れない」 「その人って……?」 「……X国の国連首脳、アルベルド氏。 彼は、Nervに反感を持つ勢力を水面下で統べているんだ。 これからシンジ君たちには、彼に会いに行ってもらう」 数分ほど歩いたところで、道路に出た僕らは、路肩に停車してある軽自動車を認めた。 「……実はさっきのヘリの被弾はフェイクでね。 追っ手が予定よりも早く来た際に目を眩ませられるよう、あらかじめ仕込んでおいたんだ。 ……そしてこの車も、念の為にと僕らが用意したものさ」 出来ればヘリに乗ったまま目的地へ行きたかったけどね、と微笑む日向さんが手にしていた端末の液晶には、現在僕らが居る山間部と同じ衛星地図が、そしてその真ん中で青いドットが明滅していた。 どうやら、この地図を頼りに此処に行き着いたらしい。 「僕はまだやる事があるんで、一緒には行けないけど…… シンジ君、これを持って行くといい。目的地への道標になるはずだ」 端末を僕に預け、イグニッションキーを捻った日向さんは、そのまま車から離れ、一路山道を引き返していく。 「君達の行き先は京都だ! 幸運を祈るよ」 「え……っ、僕が、これ……運転するの?」 暫し呆然としていた僕の頭上高く、Nervと白くマーキングされた軍用機が、僕らの乗ってきたヘリの不時着点あたりに降下していったのが見えた。 そして程なくして、数発の銃声が、山間部より轟いた…――― 「日向……さ……ん……っ!?」 全身が凍りつく。 日向さんは無事だろうか。 助けに行きたくても、エヴァも何も手にしていない今の僕には、彼らに抗する手段は何一つとしてない。 さらに、彼らは不時着したヘリに僕らが居ない事を知ったら、僕らを捕まえるべく徹底して辺りを捜索するだろう。 此処に居ては、危険…だ……!? 『シンジ君 真実から目を背けてはいけない』 『自分の足で 地に立って 歩け』 「………ッ!!」 綾波とねこさんを助手席に入れた僕は、運転席に滑り込むと端末の画面に示された通り、ギアをNレンジからドライブに叩き込むと……―――アクセルを踏み込んだ。 +続く+ 次回、2月5日では遅すぎる #7 「この道を抜けろ」 ※ 本作品に於けるシンジ君と綾波さんの逃避行の物語を書くにあたり、このアイデアの先駆者でありました「記憶のノート」のゆきかきさん、そして「生きる」のスニフさんにアイデア借用の許可を畏れ多くもお願いしました。 突然の不躾な申し出にもかかわらず、快諾下さいました両氏に改めまして、この場を借りて深く感謝の意を表します。 さて、「2月5日〜」は両氏の名作とはまたひと味違った展開へと向かう事になります。 お楽しみに……… ++ 作者に感想・メッセージを送ってやってください ++ こちらのページから ■BACK |