天井から突き出されたままの兵装ビルの群れ、その下に広がる人工の緑。
巨大な円形の空洞に敷き詰められた、緻密且つ硬質なるパノラマ。

その真ん中にそびえ立つ、ピラミッドを模した巨大な建造物があった。

葛城ミサトは、ジオフロントに射し込む人工の夕陽に赤く染まったそれをウィンドウ越しに見上げ、続いて傍らの助手席に腰を据えている男に視線を遣った。

「どうしたんです? 顔色が冴えないようですけど」

男――日向マコトが胸にあった懸念を率直に口にした。

「…そうね。 少し疲れてるかもしれないわ」

ミサトはそれを敢えて否定せず、生返事に近い態度で受け流した。
彼女のやや虚ろで俯き加減な視線は、ダッシュボードとフロントガラスの境界線に固定されている。

部下の前では、努めて前向きで強気な姿勢と空元気…悪く言えば虚勢とも取れる態度を是として来た彼女が、恐らく初めて見せる、憔悴した姿。

それに動揺した日向が押し黙ってしまったのを肌で感じた彼女は、やや無理に気持ちをもたげ、この密会の主な目的であろう会話の口火を切った。

「――それより 例の情報…本当なの?
 世界7ヶ国でエヴァ13号機までの建造を開始って…」

「…上海経由の情報です。ソースに信頼は置けますよ」

ミサトの確認に対し、静かに日向は肯定を口にした。

「何故この時期に量産を急ぐのかしら…」

世界に、人類にサードインパクトという名の破滅を運んでくる使徒を、Nervは現時点において15体まで殲滅に成功している。
この先、あと何体の使徒が襲来するかは諸説あるが…―――
聖書偽典の『エノク書』に倣って襲来した使徒に割り振られた名を鑑みるに、この使徒と人類との戦いも最後の局面に差し掛かったように思える。

にもかかわらずか…なればこそか…――日向よりこの過剰なまでのエヴァ建造ラッシュを伝え聞いたミサトは、胸の内に帳のように下りてくる不吉な疑問を覚えずにいられなかった。

「…現在エヴァは2機も大破していますし、予備戦力の増強を急いでいるのでは?」

ミサトの懸念に対し、日向の見解は至極真っ当であり、ある種楽観的だ。

「……そうかしら…?
 ここの2機にしてもドイツで建造中の5,6号機の両腕を回してもらってるのよ」

エヴァの建造には、それこそ国家予算に匹敵するぐらいの莫大な費用が掛かる。
どの国も出来うるならば、自国の腹をこれ以上痛ませずに現存の3機で騙し騙し戦力を編成していって欲しいと考えるのが普通だ。

――そんな代物を、あと10機も……
ミサトは、どうしてもそこが解せなかった。

「では、使徒の複数同時展開のケースを想定したものでしょうか」

「…そうね。 でも非公開に行う理由がないわ」

顎に手を当てたミサトは、静かに――そして、確信を込めて言った。

「委員会の焦りらしきものを感じるわ。…彼らには何か、別の目的があるのよ」

ミサトの結論に耳を傾けていた日向は、ゆっくりと首を巡らせると、

「…もっと詳しく、探りましょうか?」

「そうね…。出来るなら、お願い」

ミサトの申し出に片手を挙げて微笑み、快諾の意を示した日向は、助手席のドアを開け放つと、じりじりと灼けたアスファルトにスニーカーを踏みしめた。

本来この日この時間の彼は、非番でジオフロントには居ない存在のはずだった。
ジャケットにジーンズというラフな出で立ちの日向が去っていく後姿を見送りながら、ミサトは自分と加持との絆、加持の弔い合戦に巻き込んだ部下に心の中で侘び、それでも喜んで自分の手足となってくれている彼に感謝の意を示した。

彼女の携帯電話の液晶にメールの着信を伝える表示が浮かんだのは、その数分後だった。






2月5日では遅すぎる 第5話 「After, In The Dark」

NEON GENESIS EVANGELION
February the Fifth is Too Late:05






L.C.Lに満たされた函の中で、解き放たれた僕はただ一心に、天井を睨んでいた。

いつもなら耳障りだったリニアレールを上昇していく際に生じる金属性の轟音も、射出に伴う強烈なGの負荷も、まったく気にならなかった。

ただ、ただ…、言い知れぬ不安が僕の背中を押している。
僕の意識が向かう先は、見上げたエントリープラグの天井の向こう―――地上で戦っている綾波にのみあった。

早く、はやく綾波の元に辿り着かないと……
今回の使徒は、そう思わせる危険な何かを持っていた。


――第3新東京市上空に現れた、16番目の使徒。
二重螺旋の円環として空中にて定点回転を続けていた使徒が、綾波の零号機が接近すると共に、その形を解いて光り輝く紐のように零号機に襲い掛かった。

綾波は手にしていたライフルを至近距離から使徒に向けて発砲するが、全く堪えた様子が無い。
そうこうしている内に使徒は零号機、ひいては綾波と生体融合を開始したんだ……――


この状況になってやっと、初号機の搭乗を許可された僕は、矢も盾も堪らず地上へと飛び出した。

綾波、どうか、どうか僕が行くまで持ちこたえていて―――


「いけない…、碇君、来てはだめ!」

地上に打ち出された僕を待ち受けていたのは、使徒に侵食され、全身にミミズ状の形が浮き出ている綾波と、零号機の姿だった。

僕が使徒に、綾波に近づけば僕だって侵食される恐れがある。
それを思って、彼女は、綾波は救出に行こうとする僕を制したんだと思う。

でも、だからって、そんな事いってられない!


ロックが解除された。

僕は走る。

エヴァに、走れと命じた。

迷いも、逡巡もなく。

初号機の爪先が強く、アスファルトを蹴る。

一歩、一歩、踏みしめるたびにモニターの中の零号機の、綾波の姿が大きくなる。

いいぞ、あともう少しだ。

綾波をトウジのような目には、遭わせない。

零号機のエントリープラグを引き抜いて、安全なところに移し終えたら…

暴走でも何でも、やってやる。

それで使徒が倒せるなら、綾波を救えるなら……

どうなったっていい。

200M、100M……

あと少し、あとすこしで零号機に手が……―――




腹部に、刃物で刺し貫かれるような衝撃が走った。

お腹が……ひどく、熱い。

…なに、これ……?

視線を落とした僕の視界に、初号機の腹部に光の管が突き刺さっているのが見えた。

眼を見開き、悪寒に震える僕の額に脂汗が流れる。

嘘だろ、やめてよ……?

もう少しで、綾波を助けられるんだ。

あと、数十メートルもないんだ。

手を伸ばせば、届くんだ……!

邪魔をしないで…――…邪魔をしないでよ!!



滲んでいく僕の視界に、零号機のプラグの映像が写し出された。

綾波……

泣いて……る……

駄目だよ、綾波……

言ったじゃない…か……

あのとき…、伝えたじゃない……か……

「生きていこう」って。

あの、月夜の晩に約束したじゃないか……!



副モニターの中の綾波の唇が、小さく…、動いた。
























次の瞬間、全天が白濁した。
























僕はひどいヤツなのかも知れない。

いや、きっと。ひどいヤツだ

作戦を終えて、家に帰ってきたのが午後11時を回ったところだった。
僕は、薄暗い自室の片隅で、黙ってじっと膝を抱えていた。

どうやって帰ってきたかも、覚えてない。
それどころか、身体が麻痺してしまったかのように、呼吸以外の動作をする事に積極的じゃなくなっている。
頭も……、深い霧に覆われたみたいに、一向に晴れてくれない。

そういえば、朝以来何も食べてなかった。
ミサトさんだって、残務処理で夜中になると言ってはいたけど、帰ってくることには違いない。
先に帰らされた僕は、せめて晩御飯を作るべきだった。

でも僕は、この静寂の中、膝を抱えてまんじりとも動けずにいた。






綾波が死んだ。






僕はこの目で見たんだ。
あの時、A.T.フィールドの内側で、綾波が使徒と一緒に吹き飛んだのを。

ミサトさん達は、夜遅くまで綾波の、生存者の捜索を必死に続けてくれてるけど、綾波は助かってない。
それは、一番間近にいた僕がよく知っている。

なのに。

……それなのに。

僕は彼女のために泣く事さえも出来ないでいた。
悲しいとか…そういった言葉よりもずっと重く深いなにかが、僕の胸の内を圧し潰しているというのに。

涙が――出ないんだ。


僕は、ひどいヤツだ。

……本当に……、ひどいヤツだ……。














僕は、手にしていた携帯電話をいつの間にか握りしめている事に気が付いた。

そして、まばらに設置された街灯と点滅する黄信号の光に照らされた、交差点に立っている事を認識した。

ここは…――見覚えがある。

いつかの雨の日。
綾波と僕と……白い、小さな猫がひとつの傘の下に寄り添って……この交差点を渡った事がある。

此処は綾波の住む団地の近くの、交差点だ――。

そこまで理解した後、僕はようやく深夜に家を飛び出し、此処まで駆けて来た理由を想起した。

つい最近、綾波の部屋の新しい住人となった、毛並みの白い仔猫――「ねこさん」。
彼女の夕食を作る必要があることを、僕は思い出したのだった。




人気の無い部屋は、この間訪れた時とほとんど変わっていなかった。

打ちっ放しのコンクリートがのぞく、ひどく殺風景な空間。
パイプで骨組みされたベッド。
そしてその周辺に散らばる包帯の切れ端。

それでも、彼女の微かな匂いや、あの不思議な存在感が室内を満たしていた。

切れ掛かっているのか、時折点滅を繰り返す電灯の光に、部屋全体がぼうっと青白く浮かび上がる。

うつろな目で辺りを見回していた僕がその存在に気づいたのは、タイルを踏みしめ、彼女――ねこさんがこちらにやって来る足音がバスルームより聞こえて来たからだ。

僕はねこさんを抱き上げ、静かにベッドの端に降ろす。
ミルクを容器に移しつつ、僕は打ちっぱなしのコンクリートの壁に申し訳程度に切り取られた、窓枠へと視線を遣った。

いま、こうしている間も、僕の行動は彼らの報告の材料となっている筈だ。
僕の様な子供が足掻いた所で、これらの行動は隠匿する事も叶わず、彼らの目を通じてNervに筒抜けだった。

「…ごめんね、ねこさん…。晩ご飯、遅れちゃったね」

……いいさ。

僕がここで何をしようと、この部屋の持ち主はもう、此処には帰ってこないんだ。

そう……―――

「綾波は……かえってこないんだ……」

僕は、はじめてその言葉を口にした。

「もう…… 二度と……」

その言葉を声に出した途端、僕の胸を、何かがひどく無慈悲に穿った。

「……―――っ!」

全身を悪寒が駆け抜ける。
心臓が痛いぐらいに跳ね、息が詰まる。

声が、出せない。

震えに歯が鳴り、手から牛乳のパックが滑り落ちると、視界がぐにゃりと歪んだ。
膝が折れて、ベッドに倒れこみ、両の手で顔を覆う。



――いつかの夕刻、本部奥の庭園で見た、綾波の姿が脳裏に浮かんでいた。
立ち尽くしてる僕の視界に映る、細く、華奢な綾波の背中。


“2度目は 少し気持ち悪かった”

“3度目は 暖かかった”

“4度目は 嬉しかった”



“……もう一度 触れても いい?”



…あれが、君に触れた最後だった。

5度目は……どうだった?

5度目はどう思ったの?


綾波……


僕は君のそばに、いたかった。



ぼく…は…きみを、…失いたく…な……。



「うぁあっ!、うぅっ、うぁぁッ…、
 ぅあああぁぁぁああぁぁああぁぁぁあああぁぁ〜〜〜〜〜……っ!」



――綾波……


――あや…な…み……!!



堰を切ったように涙が、いまになって溢れてきた。

嗚咽が、止まらない。
激しい慟哭に息が続かず、それでも僕は狂ったように声を上げて、うずくまった。

叩きつける。
床に、握った拳を、叩きつける。

どうして、あの時。
綾波を救えなかったのか。

もっと他に方法はなかったのか。

すべて失った後じゃ、遅すぎる―――









涙って、どれくらい出るのか、ためしてみた。

主のいない綾波の部屋で、僕は気がふれたように泣き続けた。

たった半年。
それでも、僕はこの都市にやってきて、綾波と出会えて…――
普通の14歳では経験できないような重く、辛い現実を共に乗り越えてきた。
その上で、仄かだけど、確かにわかり合えるものが…綾波との間に芽生えていた。

それももう、終わってしまった。

すべては、断ち切られたんだ……。


こうべを垂れる僕に、注意を促す者がいた。
白に、ちょっと茶の毛並みの混じった、小さな足。

ねこさんが、さっきからテーブルの上で光を放っている、“Rei Ayanami”と所有者のネームが入ったノート型の端末をつついていた。

「………」

僕はなんとか気持ちを落ち着かせると、端末の元へゆっくりと歩いていく。
そこには、綾波が部屋を出る直前まで使っていたのだろうか、メーラーが立ち上がっていて、新たな受信メールがある事を主張していた。

人のメールボックスを覗くなんて真似、僕には出来ない。
ましてや、綾波のメールを……と、逡巡していた僕は、受信したメールの件名を見て、我が眼を疑った。


そこには、『碇シンジ君へ』とタイプされてあったからだ……。










――差出人不明のあのメールは、確かに綾波の部屋にいた僕に宛てた物で、しかもその内容とは、今から本部に来て欲しい、というものだった。

訳もわからないまま、綾波の部屋を出ようとした僕の足元に、ねこさんがくっ付いて来る。
何度説得しても頑として僕の傍から離れようとしない彼女に根負けして、僕はねこさんを連れて本部へ急ぐ事となった。

メールの指示によると、通常の入り口からではなく、裏手にあるS-56より入館しなければならないらしい。
でもあれって、普段使われてない場所にあったような……

暫し迷ったものの、S-56を探し当てた僕が通用口のドアノブに手を掛けると、鍵は掛かってなかった。
ひんやりとした通路をしばらく歩くと、何年も使ってなさそうな、ボロボロになったエレベーターが見える。

「これに……乗れっていうの……?」

思わず、足元のねこさんを見る。
ねこさんは、僕をじーっと見詰めると小さく、にー。と鳴いた。


…エレベーターは、階下に下りるボタンと、地上に上がるボタン、そして扉の開閉の4つしかなかった。
他に選択肢のない僕は、地下行きのボタンをしばしの躊躇の後に押し、今は箱の中の住人となっていた。

「……それにしても……」

これって、どこまで地下に行くんだろう…?

この箱の中に入ってもう、随分長い時間が経っている。
ここまで来ると、さすがに僕の胸の内では弱気の虫が、派手に警戒警報を発令していた。

もう、帰りたいと思い始めたその時、軽い金属音が振動音のみ支配していた箱の中に響いて、下階に到着した事を告げた。






錆だらけの扉が、音を立てて開いた。

目の前に広がる通路は、僅かに光源の役割を果たしている壁面の電燈により、奥に向かってずっと延びている事が判った。

周囲に漂う、重く沈殿した空気。
どろりとした質感を思わせる湿気が光の届かない通路の遥か向こうまで広がっている。


握り締めた掌に、じっとりと汗が滲む。
数メートル先も視認できない、重い闇の回廊。

足許からは、何かの駆動音だろうか。
地響きにも似た微かな音を伴なって、ひっきりなしに僕の靴底に振動を伝えている。


踵を返したい衝動に、ひどく駆られる。
僕の脳裏に棲みつく何かが、強く警鐘を鳴らしている。
引き返すべきではないのか。
これ以上踏み込むのは、非常に危険だ。

確信がある。

僕は確実に、来ちゃいけない領域に、足を踏み入れている。


だけど、先程僕がくぐり抜けた扉は閉ざされ、もう既に遥か後ろの闇に溶け込んで、見えない。

そう、退路が見えなくなる位に僕は歩みを進めていた。
じめじめした壁面に左手を添え、急かされるように。

何故かって? 壁面に設けられたランプが、僕が進む毎に次々と消えていくんだ。

立ち止まったら、今度こそ僕は、この重い暗闇に独りぼっちになってしまう。


額からひどく心地悪い、嫌な汗が噴き出し頬を伝う。
シャツがじっとりと汗を吸い込み、背中が、体中が重い。


嫌だ。
これ以上進みたくない。
これより先に、何が待ち受けているのか。

考えるだけで、怖い。

だけど、僕は歩くしかない。
進むしかないんだ。


まるで鉄の枷をはめられたかの様に、重い足を引きずり、叫び出したいのをやっとの思いで堪えて、次々と消え行くランプに追いすがった。


何十メートル歩いただろうか。
いや、それ以上かもしれないし、それ以下かもしれない。

ふと、前方に赤い光がボンヤリと燈っているのを認めた。
僕にこの回廊を踏破させたランプ達は、この赤い灯火を前にとどまっていた。


それは、終点を意味していた。


重い暗闇に燈る、まるで血のように赤い光源。
回廊の行き止まりである鉄扉の上部に頂いたそれは、自らの存在をこう記していた。




CLONING HUMAN PLANT : TERMINAL DOGMA








+続く+





+次回予告+


失ったものは元には戻らない。
その事実に目を背けて生き続けるなんて出来はしない。

大切なもの。
かけがえのないもの。

ぼくは、守れなかった……。


トビラを開いた先に見えたものとは―――


次回、2月5日では遅すぎる  #6 「空中回廊」




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