茜色に彩られた世界の中に、少年の影がひとつ、浮かんでいた。 濃い紺色のジャージに身を包んだ少年の肩は、いつもの快活さに満ち溢れたそれではなく、彼の内面を表すかのように沈み、力なく落とし込んでいた。 午後の授業を自主的に放棄した彼は、ここ校舎の屋上に足を運び、長い間フェンスに両の肘を掛けてその身を預けていた。 「鈴原君」 少年―――鈴原トウジは、背後から掛けられた静かなる声音に一瞬遅れて、反応を示した。 「……なんや、綾波か」 季節を忘れたはずのこの都市に、冷たい風が流れて、蒼銀色の美しい髪を後ろへとたなびかせる。 トウジの背後に歩み寄った少女は、綾波レイであった。 「シンジやったら、此処にはおらんで」 特徴的な赤い瞳をやや伏せたレイは俯き、それでも何事か伝えようとすると、それより先にトウジが口を開いた。 「…知っとんのやろ、ワシの事。 ――惣流も知っとるようやし」 「―――……うん」 「知らんのは、シンジだけか… 人の心配とは、めずらしいなぁ」 「……そう? …よく、わからない」 「お前が心配しとんのは、シンジや」 「!!……そう…」 トウジのその言葉に、レイは思わずはっと顔を跳ね上げる。 そして暫しの間の後…、その言葉をかみ締めるように繰り返し、肯いた。 「――…そうかもしれない」 「そや」 トウジは小手をかざすようにして西の空を振り仰いだ。 まるで、じりじりと燃え尽き、朽ち果てるように太陽が沈んでいく。 その様を少年はただ、虚ろに見守るだけであった。 NEON GENESIS EVANGELION February the Fifth is Too Late:04 "Blood & Blue sky" その瞬間、紫色の肉塊が黒い装甲を刺し貫いた。 『――ァぁああぁぁああぁあぁぁああぁぁ…ッッ!』 目標は、肺腑を貫通した激痛に断末魔の叫びをひとしきり上げた。 もう一度。 さらに、もう一度。 初号機に刺し貫かれた目標は、やがて声すら出せず全身を痙攣させ、半分空いた口からはただ、風を切るような音が漏れるばかりだった。 「やめ…て… もう… …や…め… やめ…て…」 僕は頭を抱え、身をひどく震わせて、目の前の悪夢のような凄惨な光景に、涙を流して力無く訴えるよりなかった。 松代第2実験場で事故が発生、同時にその近辺に未確認移動物体が出現したとの報せを受けた僕らは、爆発に巻き込まれたミサトさんやリツコさん達の安否を気遣いながらも、野辺山麓で使徒と思われる物体を待ち伏せていた。 だけど… 殲滅目標と父さん達に指示されたのは――― 僕らの乗る機体と同じ、エヴァンゲリオンだったんだ…――― 力なくうなだれた黒いエヴァの装甲に降りかかる、赤い噴水。 参号機の胸の傷口から噴き出す、おびただしい鮮血がその黒いボディを伝って垂れ落ちて、初号機の足元にまで広がって、血の池を作った。 僕は見たんだ。 黒い参号機の頚椎部から、エントリープラグが未射出のまま、おぞましい粘液によって食い止められているのを。 そして、僕は知ったんだ。 このエヴァンゲリオンには、4人目の適任者に任命されたチルドレンが脱出できずに、機体に閉じ込められている事を。 アスカも綾波も、この使徒に乗っ取られた参号機の前に倒れた。 だけど僕は……ヒトが乗ってると知ってて、参号機を殲滅することなんて、出来なかった。 神経接続が解かれていない今、僕が参号機を攻撃したらそのダメージは直接、パイロットに伝わってしまう。 ショックで死んでしまう事だって、あり得るんだ…… 「誰かを傷つけるぐらいなら…ッ、 僕が死んでしまった方がいい!!」 本心だった。 そんな事をしてまで、生き残る価値が僕にあるとは、とても思えなかった。 何ひとつ満足に出来たためしのない僕なんかが生き残るより、他の誰かが生きてくれた方が、きっと上手くやってくれるだろう。 そんな僕の訴えを、父さん達が聞き入れてくれる訳もなかった。 父さんの指示の数秒後、突然、プラグ内が暗転した。 驚く間も与えずに再起動を果たした初号機は……僕の意思を全く聞き入れない……ただ、目の前の敵を抹殺する殺戮兵器へと変貌した。 参号機は生きながら傷口を押し広げられ、殺戮兵器の無慈悲な暴力の前にその身を引き裂かれる。 黒いエヴァは押し寄せる激痛に、糸の切れた操り人形のように無残なダンスを強いられていた。 あまりの凄惨さと罪悪感に嘔吐する。 気を失うか、いっそ、このまま気が狂ってしまえばどんなに楽だろう。 だけど僕を取り巻く運命は、そんな都合のいい慈悲を与えてはくれなかった。 目の前で、自分が押し通した選択の結果を、まざまざと見せ付けられる。 僕はもう、泣き叫ぶより、なかった。 ―――今日も僕は、ジオフロント内にある病院に来ていた。 消毒液の匂いの絶えない、白く、無機質な空間。 受付を通って奥のエレベーターを経由し、いくつかの角を曲がったところ。 「第一脳神経」 プレートにはそう、書かれていた。 「アスカ…」 ドアを開けた僕は、開けるまで胸の片隅に抱いていた僅かな期待を、今日も否定されたことを知る。 白いベッドの上には、認めたくない、いつもの光景があった。 饒舌で快活だったはずのアスカが、見る影もなくただ、そこに横たわっている。 あんなに自信に満ち溢れていた、青い瞳は落ち窪み、白磁のような頬はやつれ、魅力的な赤い髪はぼさぼさに乱れていた。 ここに至るまで、辛いことがいくつもあった。 ダミープラグによって僕から初号機を奪い、参号機を、トウジを殺しかけたあの時、僕は…――逆上し、父さんをNerv本部ごと葬り去ってやろうとした。 全てに耐え切れなくなった僕は、独房から出た翌日、Nervを去った。 綾波が…辛そうな表情をしていたけど… 僕はもう、限界だった。 けれど、第3新東京市を離れようとしたその時、新たな使徒が襲って来て… 僕は加持さんに諭されて、もう一度戦うことを選んだんだ。 そこから先は、記憶があいまいでよく覚えていない。 気が付けば僕は病院のベッドの上にいて、半月以上もの時間が流れていたんだ。 そして、トウジが片足を失った―――否、僕が奪った―――あの忌まわしい日から1ヵ月後、僕らは衛星軌道上に出現した使徒の襲撃を受けた。 アスカは使徒の精神攻撃を受けて、心の奥底にまでダメージを負わされた。 リツコさんが言うには元に戻るのは難しいらしい… 使徒は何とか綾波が倒したけれど、その間、僕はケイジで指をくわえて見ているだけだった。 アスカのココロが壊されるのを……黙って見ているよりなかったんだ…。 「…くそッ!」 僕は身動きもせず、ただ病室の無機質な白い天井を見上げているのみのアスカの変わり果てた姿に、憤りを隠せなかった。 「…どうして…」 どうして僕は、いつも肝心な時に何も出来ずに、見ていることしかできないんだろう…。 心の底から、自分自身が歯がゆかった。 翌日。 本部での訓練の帰り道、長いエスカレーターに乗り込もうとする綾波の姿を見つけた。 「綾波」 僕の呼びかけに振り向いた彼女は、なんとなくだけど…少し元気がなさそうに思えた。 「家に帰るの?」 「ええ…」 綾波の後姿に追いついた僕に対して、珍しく彼女から語り掛けてきた。 「碇くんは? 今日も惣流さんのところに寄るの…?」 「一応ね。 …僕が行っても何もならないのは分かってるけど」 綾波の問いかけに答えた僕は、ふと思ったことを率直に話した。 「なんか… 綾波と話すの久しぶりな気がするな」 「そう?」 綾波は、少し視線を足元に落とした後、 「…そうね。 彼女があんなことになって… わたしたちだけ平和に仲良くおしゃべりなんて できる感じじゃないわね」 「それは… そうだけど」 どこか、突き放したような綾波の言葉に、僕はそれっきり何も言えなくなってしまった。 ねこさんの世話の件等で、綾波と話できる切っ掛けはあるはずなのに、それすらも持ち出しにくい。 僕と綾波の距離は、出会った頃に比べれば確実に縮まっている。 けど。 この距離感はこの先… 縮まる事はあるんだろうか…――― 僕の胸の中に、大切にしまっていた情景がよみがえる。 初号機の中に溶けて、奇跡的に戻って来れた後のある日。 僕は、本部の施設内にひっそりと設けられた庭園の片隅に、綾波と共にいた。 「もう一度、…碇くんに触れてもいい…?」 僕らは、何度かその手を触れあったことがある。 互いの体温だって、感じあったことがある。 「……いいよ」 僕らは手に手を取り…ゆっくりと、互いのたなごころのぬくもりを、伝え合う。 言葉もなく、ただ、ただ、大切に。 不器用かも知れないけれど、慈しみあった。 いま思えば…、彼女との思い出の中で一番、幸せだった。 ――僕らは久しぶりに、ふたりでいる。 僕のすぐそばに、綾波がいる。 だけど、互いに触れ合うことが許されない、どうにもならない、隔絶された悲しい距離。 いつかまた、皆で笑い合える日が来れば…いいのに。 そうすれば、僕も綾波もきっと…――― そんな僕の淡い思いは儚く、運命は僕らを更なる渦中に巻き込んでいくことになるんだ…。 +続く+ 綾波は僕に言ったんだ。 私には、何もないものって。 あると思っていた絆も、本当はなかったって…。 大切な人との絆がなくなってしまったら、どんな気持ちになるんだろう。 僕は綾波がいなくなったときのことを考えてみた。 そしたら、目から涙が溢れて止まらなくなった。 綾波、僕はそばにいたいんだ。 僕はきみを、ひとりにしない。 次回、2月5日では遅すぎる #5 「After, In The Dark」 ++ 作者に感想・メッセージを送ってやってください ++ こちらのページから ■BACK |