人気の無い部屋は、この間訪れた時とほとんど変わっていなかった。

打ちっ放しのコンクリートがのぞく、ひどく殺風景な空間。
パイプで骨組みされたベッド。
そしてその周辺に散らばる包帯の切れ端。

それでも、彼女の微かな匂いや、あの不思議な存在感が室内を満たしていて、
僕はその中にいるだけで、胸の内がじわりと熱くなり、瞼の裏にどうしようもない何かが押し寄せた。






2月5日では遅すぎる  第1話 「優しい日々」

NEON GENESIS EVANGELION
February the Fifth is Too Late:01 "At orange"






「ふたりとも! 作戦内容、いいわね?」

回線を通じて、洋上の葛城ミサトの緊迫した音声が海底の機内に響く。

「――な、なんとか…、やってみるよ!」

胸部を暖かく包む、美少女の太ももの感触に鼻血を堪えつつ放った好色少年の返答を契機に、
キングス弁を開放された無人の戦艦二隻が横並びに使徒とエヴァの待つ大海原へと沈降を開始する。

『――全艦、Z地点に対し沈降開始』
「了解。 ――ケーブル、リバース!」

UNと銘打たれたエヴァ専用外部電源用ソケット、そこから伸びるアンビリカルケーブルが、
巨大な回転音と共に高速で巻き戻される。

「――ちょっと、いつまで触ってンのよ?! どいてったら!」
「でも、早く口をこじ開けないと、僕らもやられちゃうよ!?」


2015年09月20日。

独国・ヴィルヘルムスハーフェンより佐世保経由後、目的地・新横須賀へ再出航した国連太平洋艦隊は、
目的地目前で海底より現われし未確認移動物体――”使徒”の襲来に遭った。

迫撃を加え続ける使徒に対し乗艦していた惣流・アスカ・ラングレー及び碇シンジはエヴァ弐号機を駆り、
目標に対抗するも、喰われたまま海底に引きずり込まれてしまう。

葛城ミサト作戦課長は、海中のエヴァと空母を繋ぐアンビリカルケーブルをリバースさせて使徒を手繰り寄せ、
待ち受けた残存の戦艦二隻による零距離射撃、さらに自爆させる事で使徒撃破を立案――承認され、実行に移したのだった。



赤い髪の美少女の膝の上に上半身を横たえた黒髪の少年が、喰らいつく使徒より逃れんと操縦桿に力を込める。

『エヴァ、浮上中! 接触まであと…――50!』

「――だめだ!」

焦燥に駆られた少年が、背後の少女に叫ぶ。

「…もう、時間が無いわ!」

揃いのプラグスーツの少女が意を決したように鋭く声を発すると、操縦桿を引き上げる少年の手の甲に自らの掌を添えた。

『間に合わないわ! 早く!』

矢継ぎ早に飛び込んでくる報告を背後に、洋上のミサトが叫ぶ。

「――ヘンなこと、考えないでよね」
「なにが?!」
「…とにかく、考えを集中させるのよ!」
「わかってる!」


『接触まで あと…――20!』

スピーカーより漏れ伝わる焦燥に急かされた言葉。
それに弾かれるように少年と美少女は操縦桿に添えられた互いの手指に力を込め、恐るべし集中力を以って意識を同調させていく。

「くう…ぅ…うぅ…ぅ…!」
「む…ぅ…う…ぅぅ…う…!」

『接触まで あと…――15!』

(開け、開け、開け…――ひらけッ!)
(開け、…開け、…開け…ひらけッ!)

凡庸な少年と才気溢れる美少女。
両手を握り締めるふたりは、身も心もひとつになり―――奇跡が起こった。

これまで人類未踏の領域であったシンクロメーターMAX。
二人の愛の力が、その神とまで喩えられる領域にまでシンクロ値を押し上げ、項垂れていた赤い機体の頭が跳ね上がる。
四ツ目に再び光が燈った!

おびただしい力量で巨大な牙に閉ざされた禍々しい口径部を、正義の赤い天使がこじ開ける。
次の刹那、2隻の戦艦が開口された使徒に突入。

口径内のコアに向け、全弾を撃ち尽くし、さらには自爆。
目標は激しい膨張の後、散滅した。

かくして、Nervが誇る美少女エースパイロットとその魅力に惹き寄せられたエキストラ約一名の活躍により、使徒殲滅に成功したのだった―――






「――…と、言うのがアタシ達の馴れ初めだったのよね〜」

だだっ広い室内にひとつだけ添えられた事務机にお尻を乗せたアスカが、
口の端にニマニマとした笑みをたたえながら締めくくった。

「…何だよその『ナレソメ』って」

あなた意味間違ってます。
僕はこめかみに軽い頭痛を感じつつ、とりあえず突っ込んでおいた。



――ひと月半ほど前の僕らは、平和そのものだったように思う。
少なくとも今に比べたら。

この日だって、訓練後のブリーフィングが終わった後も僕らはこの会議室より早々と立ち去るようなことは無く、
どっかりと机に腰掛けたアスカを中心に他愛も無いおしゃべりに興じていた。

まぁ要は、アスカが僕らをいじって楽しむだけに設けられた座なんだけど。



「い〜じゃない別に。本当のことなんだからさぁ」

ピンク色の唇の一端を微妙に吊り上げ、獲物を狙う猫のように青い瞳を細めたアスカが僕に流し目を送る。
こういう目をしている時のアスカには近寄らない方がいい。
数ヶ月の同居生活から得た教訓だ。

最近、アスカは何かとこうやって僕に絡みたがる事が多くなった。
しかも、決まって綾波の前で。

今日も今日とて、アスカは太平洋上で第六使徒と戦った時の出来事を、
独自の怪しげな脚色付きで僕と綾波の前で語っていた。

「…大体、あの時のアスカって、海に落ちて動かないじゃないのとか、
 くちいぃ〜!っ?とかやたら動揺して騒がしいだけだったろ!?
 それに何なのさ”エキストラ約一名”って?」

「ふふん、そうね、相手役の男の子がエキストラじゃ主演女優のアタシにもハクが付かないってもんね」

「問題はそこじゃないだろ…」

ジト目で睨む僕を100%故意にスルーしたアスカは、やがてうっとりした目で頬に両手をあてる。

「それにしても、あの時アタシの手を握り締めたシンジの手の平の力強さ…――」

「……はい?」





「感じたわ」





殺るしかない。

立ち上がって拳を握り締め、周囲にバールの様な物がないか視線を配った僕の脳裏で、
「でも、どうやってアスカに勝つんだ?」という冷静且つもっともな意見が浮上して、
僕は自分の殺意が見る見るうちに萎んでいくのを実感した。

かぶりを振った僕は、傍らの綾波に苦々しい笑いを向ける。
『また、アスカがヘンな事言ってるよ』…と。
綾波は綾波で「そう」とか「別に」という、いつもの調子で興味なさそうに佇んでるのが常なんだけど…

「………」

返事がない。

「………」

そして、いつにも増して無表情に拍車が掛かっている様に見える。

「あのー… 綾波…さん?」


すくっ。

かつかつかつ。


バタン!


…今日は違った…。

足早に去り行く彼女が起こした風を半身に感じ、驚いて顔を上げた僕は彼女の後姿を視認する間もなく、
勢いよく閉められたドアの音に鼓膜をつんざかれた。

「……」
「え…? あ… 綾波…?」

目を丸くして固まってる僕とアスカ。

「…ねぇシンジ、ひょっとして、ファースト…」
「お… ぉお… おぉぉおぉおお…」


(…怒ってらっしゃる―――?!)






「あわわわわわ… 綾波、何処いったんだろ…」

暫しの硬直時間が解けた後、僕は弾かれたように会議室を後にし、施設内を駆け足で廻っていた。

一応訓練は終わっているのだから、帰宅ルートを押さえるべきと踏んだんだけど、
ゲートの看守さん曰く、綾波はまだNerv本部を出ていないらしい。

もういいから帰ろうと、やる気なく主張するアスカに出入り口の見張りを頼んだ僕は、
綾波が居そうな場所をしらみつぶしに当ってみる事にした。


発令所… いない。

ケイジ… いない。

父さんの執務室… は怖いから行けない。


リツコさんの部屋から休憩所に至るまで僕は駆けずり回ったけど、何処にも綾波の姿は認められなかった。
それどころか、彼女の目撃談さえも、一片も掴むことが出来なかった。


「綾波ぃ… どこいったのさ…」

とぼとぼと肩を落として回廊を歩く僕。
さえない風体が、更にさえなく見えた事だろう。

今でもこんなに情けない僕だけど、此処Nervに、第3新東京市に初めて訪れた頃は、
今よりもさらに輪をかけてオドオドとしていた。

何年かぶりに突然父さんに呼び出されたと思えば、見た事もない得体の知れない
巨大ロボを操縦しなきゃいけないといわれたら、誰だって面食らうと思う。

ましてや僕は、そんなに物事を何でも器用にこなせるタイプの人間じゃない。
自分で言うのもなんだけど、むしろトロい方だ。

環境が変われば、人間関係だってリセットされる。
転校は何回か経験したけど、何処に居たって僕は地味で存在感のない奴だったし、
クラスの人気者にのし上がろうとキャラ変更に努力するようなタイプなんかじゃない。

だけど諦観と厭世感が常に傍らにあるような僕でさえも、世界の命運が賭かっていると言われたら、
せめてエヴァの訓練だけでも満足にこなせるようにならないといけない。

繰り返される訓練、実験、訓練、実験、訓練…。

此処に来て数月の間、僕は失敗してはリツコさん達に怒られてばかりの連続で、
ピーク時には何処かで物音が立っても自分の所為だと竦みあがる程に、気に病んで臆病になっていた。


そんな僕を、救ってくれたのが綾波だった。


訓練中、僕が操縦法に詰まると、あのいつもの素っ気ない口調で、的確で詳しい助言を与え続けてくれた。
ダメ出しされてうな垂れて帰る夕暮れのバスの中で、何も言わずに隣に座ってくれていたのも、
今思えば僕を気遣ってくれていたんだと思う。

嬉しかった。
例えそれが、ミサトさんら上司に促されたものだったとしても。

綾波は、滅多に感情を表に出す事はしない。
日頃顔を会わす機会の多い僕でも、はっきりとそれを見たのは数えるほどしかない。

さらに、積極的に意見や主張を論ずる方でもない。
どんなに厳しい訓練スケジュール、どんなに奇跡目当ての無茶な作戦でも、命令は命令。
不平をこぼしたりしないんだ。

そんな彼女が命令に反し、はじめて自身の意見を主張した事があった。
しかも、それは僕に関することだった。


今から4日前の2015年、12月9日。
第3新東京市直上に第十二使徒が襲来した時の事だった。

あの時の僕はやっと訓練に慣れて、シンクロ値もトップになって…有頂天になっていた。
使徒の特長も掴めないまま先走った行動を取ってしまって、使徒の持つディラックの海に取り込まれてしまったんだ。

このままでは他のエヴァ2機も餌食になってしまう。
そう判断したミサトさんが撤退命令を出した、その時。

綾波が…まだ初号機と僕が居るからと、異議を唱えたんだ。

僕が生還した後で、ミサトさんが冷やかし半分で教えてくれたんだけど、アスカもミサトさんも内心驚いてたんだって。

僕も驚くと同時に、その一方で心の何処かで頷いていた。

綾波は、少しわかりにくい所があるけど、決して父さんたちの良い様に動く操り人形なんかじゃない。
当たり前だけど、ちゃんとした自分の意志を持ってるし、我慢できない事だってあるんだ。

そしてそれを、今日の僕は見落としていた。

いつもアスカの戯言に、無関心な様子で居続けた彼女。
それがとうとう、堪え切れずに感情を爆発させてしまった…。

傍目には無表情だったかもしれないけど、部屋を出て行く直前の綾波からは、はっきりと憤然とした空気が流れていた。

僕は、あいまいに苦笑いを向けるんじゃなくて、何かこう…彼女の気持ちを落ち着かせる、
はっきりした意思表示を示さなきゃいけなかったんだと思う。

僕はやっぱり、バカシンジだ…。





西5番搬入路に程近い通路のガラス窓の向こうに、中学の制服を着た人影があるのを僕は認めた。

夕暮れに照らされ、その青い髪をオレンジ色に染めた、華奢で儚げな女の子。
間違いなく、綾波だった。

「綾波!」

通路の外に出た僕は、息せき切って彼女の許へと駆け寄る。

綾波は、人工の庭園の中央に設けられた噴水の縁石に腰掛けていた。

「…碇くん」

駆け寄る僕の姿に気付いた彼女は、一瞬顔を上げると、また視線を膝の上に落とした。
文庫本を読んでいるようだった。

「綾波…! 綾波…! よかった、やっと見つけた…!」

ぜいぜい言いながら彼女の許に辿り着いた僕に対し、綾波はいつもの様子で

「まだ帰ってなかったの」

「その… あの… 綾波に、謝りたくって…」

「なにを?」

「何って…、その…さっきの事さ」

「あなたは何も悪いことをしてないわ」

「でも、あの…あの時、僕がちゃんと綾波に、アスカが言ってること、
 ほとんどウソだって言えば、綾波だって怒ることなかったと思うし…その…」

「そう」

ぱたん。

綾波が、突然手にしていた文庫本を閉じた。

「…へ。 …綾波…?」

「暗くなってきたから。 帰るわ」

「う、うん…」

立ち上がり、さっさと踵を返した綾波に追従しようとする僕に、彼女はくるっと振り向くと、



「それじゃ碇くん、…どこまでが本当?」



「あ…」


あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"〜〜〜〜〜…っ!



「ア… アスカと… ふ…二人乗りして… 使徒を殲滅… しまし…た…」

「それだけ?」

「ア… アア… アスカと… ちょっと密着気味に… エヴァ操縦… しま…した…」

「手は?」

「にぎり… ます…た」

「そう」

字面で見ると普段の綾波の口調なんだけど、彼女から発散される空気が、いつにも増して無表情な双眸が、僕の寿命を大幅に圧縮していく。

結局、僕は彼女が望んでもいないのに、ゲートに着くまでの間、平謝りに謝り倒したのだった。






「えぇっ?! バスもう出たんですか?!」

看守のおじさんの言葉に、僕は目の前が真っ暗になった。
Nerv本部〜市内への直通バスは、夕方7時を過ぎると、極端に本数が減る。

僕らがバス停に程近いゲートに到着したのは、午後7時10分を回ったところだった。

「どうしよ…」

僕は額に手を当てて、うな垂れてしまう。
今日は大掛かりな実験がなかった為、大部分の職員達は既に帰宅している。
アスカだって、僕が綾波を探しに行った直後に、さっさと帰ってしまったらしい。

車持ちのミサトさんを呼ぶにも、同乗さえ可能ならば使徒をも殺せるというアバンギャルドな走りには、
さすがに今日は心身ともに耐えられそうにない。

煩悶する僕の傍らで無言を貫いていた綾波が、くいくいと僕のワイシャツの裾を引いた。

「…? どうしたの、あやな…」

振り向く僕の目の前に、かなり旧式の自転車を引っ張り出している看守のおじさんの姿が目に入った。

「…使ってないから、乗ってもいいそうよ」






きこきこきこ。

僕らは看守のおじさんに礼を言って本部を後にした。
油の切れたチェーンと歯車が少し騒々しかったけど、乗り心地自体は悪くない。

ところどころボディに錆びが入ったこの自転車には、前面に荷物かごが着いていないため、
後ろに座っている綾波に僕のカバンを持ってもらうことにした。

「綾波、大丈夫? カバン…重くない?」

時々僕は振り返り、すぐ後ろの綾波に念を押すように訊く。
なんせ彼女は、自転車のふたり乗りなんてした事ないって言うから…。

青い色の髪を、華奢な身体を振動でふらふら揺られながら、自転車ふたり乗りに於ける女の子座りの体勢を取った綾波が返答する。

「大丈…夫。こうすれば、問題…ないわ」


ぎゅっ。


「いっ?!」

僕は思わず声をあげてしまった。

綾波はバランスを取るべく、片手にカバン、そしてもう一方の手を僕の胴に回し、自身の半身を僕の背中にくっつけたのだ。

「…碇くん…?」

奇声を上げた僕を、不思議そうに綾波が見詰める。
そうなんだ、綾波は自転車に振り落とされずに、尚且つ荷物をきちんと保持する為に合理的な体勢を取っただけなんだ。


でも…

それでも…――

――僕だって… 女の子と自転車ふたり乗りするの、はじめてなんだよ…!


盛大にバクバクいってる心音も、背中越しに彼女に気付かれてるかもしれない。
ああ、本当に恥ずかしい…

そんな僕の内なるパニックも知らず、綾波はふと、僕のカバンからはみ出している物品を指で摘み出した。

「これ…なに?」

「あぁ…。それ、DATのイヤホンさ」

「DAT…?」

「音楽が聴けるんだ。 …綾波、聴いてみる?」

頷いた綾波の片耳に、イヤホンの片割れを預け、もう一方を僕の片耳へ収めて、再生ボタンを押す。



信号が、青に変わった。

ペダルを踏み込む。

流れる旋律。

背中に、確かに感じる綾波の温もり。

市内へと続く夕暮れの堤防の上を、オレンジ色に染まった僕らがゆっくりと過ぎていった。







+続く+





+次回予告+


言葉では伝え切れないものがある。
それは人の想いだ。

心の中の想いはうまく言葉に込め難い。
けど、想いを知る術がないわけじゃない。

僕は知っている。
綾波だって、知っている。

それは、いつかの記憶。
あの日、あの時、僕が流した涙。


次回、2月5日では遅すぎる  #2「感情」。




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