綾波レイが碇シンジに交際を申し込んだ。

 彼はそれを二秒で断った。













フレクション











 一学期も残り少ない、ある日の放課後の職員室だった。 
「――――では確かに。あと一週間ですね。友達にしっかり挨拶なさい」
「はい」
 微笑む老教師にお辞儀をして、碇シンジは転校の手続き書類を鞄にしまった。
「転校先の中学校にはもう行ったのかね?」
「見に行くのはこれからです」
「住まいは」
「叔父のところに世話になりますから、なんとか」  
 シンジのよどみない返答に、そうですか、と担任は曖昧に頷いた。三年生の半ばに実父のもとを離れて単身転校していくという生徒。変わっているが、家庭が変わっているのだから仕方がない。知る人ぞ知る、彼の父親は世界で指折りの要人なのである。
「先生」
 細く小さな声が二人の間に割って入った。
 教師の背後にいつの間にか女子生徒が立っていて、書類の束を差し出している。 
「レポートを集めてきました」
「あぁ、ご苦労様。ちょっと待ってくださいね」
 差し出された束を受け取って確認する。シンジと女子生徒の視線が触れあってすれ違った。
「……ああ、そうだ。綾波さん、碇君は来週転校することになりました」
 担任教師が女子生徒に口を滑らす。その女子生徒、綾波レイは目だけでシンジを見て、抑揚のない声で呟いた。
「そうですか」







「……大丈夫ですよ、僕一人で今担任の先生に……いやなんで葛城さんが謝るんですか? これはウチの事情ですし……父さんが泣いてる? 知りませんよ別に喧嘩してるわけじゃ……進学するなら長野がいいって言ったの父さんですよ? ……冬月先生に言わされた? ってそれこそ知りませんよ。だから気にしないで……送別会? いいで、え、手料理?」
 ぴっ。
 携帯電話を電源ごと切った。危ないところだったと額の汗をぬぐう。今晩はできあいのものを買っていこう。
 職員室を後にしたシンジは夕暮れの校舎の中をのんびり歩いていた。
 窓の外を眺めたり、廊下の匂いを吸い込んだり。
「――案外、しみじみかな」
 なんとはなしに遠回りして教室に戻ることにしていた。風景になぜだか懐かしいようなぬくもりを覚える。
 一人でいることが多かったシンジに、人との思い出は少ない。人嫌いだとかいうのではなく、単純に存在感が薄かった。「碇シンジが転校する」と皆に言っても「……碇って?」といった空気が流れるのが目に浮かぶ。先ほど職員室で出会った綾波レイが見せたような。
「綾波レイ、か……」
 とりとめのない思考が、あるクラスメイトに及んだとき、
「…………碇君」
「え?」
 本人が目の前にいた。
 何やら迷惑なオマケ付きで。







 人気のない放課後の廊下。夕日も届かぬ柱の陰に、綾波レイはいた。もう一人、見知った男子生徒と二人きりで。
 隣のクラスの、ムサシ・リー……だっけ。
 少年はシンジを見るや不機嫌そうに睨んできた。
「……やあ」
 すれ違いざまにレイに言うシンジ。さよならの意だ。足は止めない。早足で行き過ぎたいところだけど今までのんびり歩いていたのを急に急ぐのも気まずい、などと考えるあたり他人に神経質なシンジである。その場の空気は敏感に読めた。睨まれる筋合いこそないが、早々に退散してやる。横っ面に少年の視線を感じた。しつこい奴、とシンジが内心つぶやくと、
「もういいでしょ」
 冷たい声が背後から響いた。綾波レイだ。
 歩みは止めなかったが、振り返りそうになった。思ったより甘酸っぱいシチュエーションではないらしい。
「そんな言い方ないだろ」
 低く、こらえるようなムサシの声。どことなくすごんでいるような。
「もう返事したわ」
「まだ理由を聞いてない」
「あなたのことよく知らないから」
「俺のことを知らない?」
 彼のことは世事に疎いシンジでも知っていた。スポーツマンで、定期試験の成績でも上の方によく名前を見かける。まぁそれだけと言えばそれだけなのだが。
「知らない」
 それを綾波レイは切り捨てる。驚くにはあたらない。綾波レイが至る所でこういう問答を繰り返していて、未だ誰の申し出にも応じたことがないというのはムサシ・リーの名前以上に有名だからだ。
「知らないって……」
 けれど屈辱だったのだろう。険悪な空気を十歩後ろに感じて、シンジはやれやれと肩をすくめた。
「なら知ってくれよ。これから知れば変わるかも知れないだろ」
「変わらないわ」
「わかんねえな、俺のこと知らねえから断るんだろ! だったら知ってから考えてもいいじゃないか」
 この人フラれたことないんだろうな、とシンジは思う。
「…………わからないの? あなたのためにそういう断り方をしたの」
 え?
 シンジがぎくりとする。場慣れした綾波レイとも思えない。そんなこと言ったら、
「あァ……?」
 ムサシの声色が変わる。
「なんだそれ? 何様だよお前ッ!」
「あなたが私を見下しているから、相応の返事をしたのよ」
 二人とも声が大きくなって、10メートルも離れたシンジに声が届く。
 おかしい。綾波レイはこんな挑発的な、感情的な物言いをする子じゃないと思っていた。
「本当の事を知りたいなら、言うわ」
 どんな罵詈雑言を浴びせる気だろうか? シンジの背筋が冷える。
 だが続けて聞こえてきたのは、やけに静かで意外なセリフ。
「好きな人がいるから」
 ファンが聞けば仰天だろうが碇シンジは拍子抜けする。そんな今さらベタベタな、と。しかし次の瞬間腰が抜けた。

「――…………碇君のことが、好きだから」







「……ほぇ? 今なんてったの?」
「だから……綾波さんってどんな子なんですか?……って」
 ぱぁんっ。
 と、葛城ミサトはあぐらをかいた膝を打ったものである。
「待ってましたッ! ってか遅ぇ! 遅いよシンジ君! 今頃になってレイのことが気にな」
「違います」
 さくさくと惣菜を口に運ぶ手を止めず、目で酔っぱらいを黙らせるシンジ。
 夕飯の食卓は強引に押しかけたミサトのせいで、インスタントおつまみであふれてしまった。中学生一人住まいのワンルームにビール臭を漂わせるのはこの隣人だけだ。
「違うって……じゃなんでそんなこと聞くのよぅ? 今まで何度もレイを紹介するって言っても聞かなかったのにぃ」ずるずるとビール缶をくわえて。
「今日、告られたんで」
「あぁ、なるほぶッぇええええええッ!」缶ごと吐き飛ばす。
 ピッ。
「あっもしもしリツコ? 今すぐ来い! ウダウダ言わずに来い! すンごいネタがあんのよ! マジマジもう」
「もしもし父さん?」
 ビピッ!
 シンジの携帯をひったくって自分のと二つともぶっちぎるミサト。
「シ、シンジ君たら冗談キツくてイヤん。電話なんかしてないってジョークジョークぅ」
「……そうだったんですか?」
「あはは……今日は本当に早番だったんだから。今夜はホントに非・番。信じて、ね? お父さんに確認とかしちゃ駄目だかんね?」
 語るに落ちているが、それすら勢いで持ち上げるのが葛城ミサト。
「……で、その話マジなの?」
「付き合って欲しいって言われましたけど」
「で、で! どうしたのっ?」
「断りましたよ」
 当たり前でしょ、とシンジはできあいのコロッケをかじる。衣が固い。
「どおぉしてええ!!」
 他人宅で絶叫して憚らない酔っぱらいである。父の部下(職務怠慢中)にしても隣に住んでるお姉さん(誤差含む)にしてもでかい態度だ。
「同じ事聞かれましたよ……1/100の音量で」
 いつの間にか缶に口を付け、くいっとあおるシンジ。未成年であるからして何の缶であるかは不明。
「なんて答えたのよ?」
「君のことよく知らないから」
 はぁぁあ?
「センスねー! なさすぎ! んなその場しのぎな!」
「意味伝わってますって。ちゃんと」
 あの場にいれば、きっぱりと。
「はぁ、つまんねー……つまんねー男だよ君わぁ」
「ぅわ、はなれてくださいよ! なんで絡むんですか?」
「だあって! レイ、いいじゃない! かあいいし、頭いいし、スポーツだってスタイルだって!おまけに」
「エヴァンゲリオンに乗れるし?」
 んっがくっく。
 乗り出した身を、ぴたりと止めて、すすすっと戻すミサト。赤い顔が苦くなっている。
「……それは、別」
「わかってますけど」
「ホントにぃ?」
 彼女が特別だから、という理由で憧れている人間がたくさんいる。第三新東京市に築かれた人類の砦・ネルフ。あらゆる意味でそのてっぺんに、綾波レイと、シンジの父はいるわけで。
「使徒のニュース、最近もやってたじゃないですか」
「……あー」
 かつて人類を破滅に追いつめた「使徒」。その再来が予測されて十数年。
「MAGIの定例試算でしょ? 再来確率が3パーを切った、ってやつかしら」
 とくとく、とビールをグラスに移すミサト。なんだかいろいろぬるくなっちゃったわ、と。
「それでまた学校でエヴァが話題になったから」
「そりゃ、“万が一”まで下がってもニュースにはなるでしょーよ」
 サードインパクトは御免ですからね。
 唯一の迎撃兵器・エヴァの需要価値はそうそう下がらない。その選ばれしパイロットの価値もまた。
「人気出てるんですよ、綾波さん」
 いつにも増してつまらなさそうなシンジの口ぶり。変ね、とミサト。もしやエヴァへの嫌悪感が原因でレイを? と内心で軽く勘繰る。
「……そんないいモンじゃないのにねぇ?」
「そんなモンに僕を乗せようとしたくせに」
 ぶっ。軽く見透かされていた。
「それはぁ」
「みんなにはわかんないですよ。やっぱ、かっこいいし」
「でも乗ってくんなかったじゃない」
 この十数年間、多忙な父はシンジをほったらかしにしてはいたが、手離しはしなかった。
 それはシンジがただ一人の肉親であったからであり、シンジがエヴァパイロットの素養を持っていたからでもあった。
 存在自体がトップシークレットなチルドレン「候補」碇シンジはしかし、この馴れ馴れしい作戦部長らに惜しまれつつ、エヴァに乗ることを拒み続けた。
「僕は舞台裏知ってますから、良くも悪くも幻想というか、そういうの無いだけです」
 自分の未来も、綾波レイへの印象も。エヴァに左右されることはない、と言っている。
「んじゃ、レイをフった理由はなに?」
「それは」
 と切って、シンジは缶をかしゃりと握りつぶした。
「綾波さん自体が嫌いだから」



◆ 


 
 週が明けて、シンジの登校も残すところ五日。
 シンジは転校のことはギリギリまで誰にも言わないつもりでいる。言っても周囲を態度に困らせるだけだと思うから。
 ところが、その日は朝から既におかしなことになっていた。

 見られてる。
 教室に入るや、自分に視線が集中している。心当たりはものすごくある。
「……っ」
 心当たりと出くわした。綾波レイ。
「おはよう、碇君」
 ざわっ。
「……おは、よう」
 遭遇は一瞬。しかも平凡。しかし初めてだった。
 朝、シンジが誰かに挨拶されるのも、綾波レイが誰かに自分から挨拶をしたりするのも。
 あの冷たい氷みたいな綾波レイが……!
 ざわめきは噂に変わり、噂は確信に変わり、迷惑な形に顕在化した。


『ねえねえ、碇君てば綾波さんをフッたってホント?  (Y/N)』
『N』
『じゃあ付き合ってるの!?  (Y/N)』
『N』
 授業中に何度打ち返したところで、キリがない。シンジはネットワークを切断する。テキストも届かなくなるが、もとより授業どころではない。
 ため息をついて、斜め前方の背中を睨んだ。銀色の髪が窓からの風に揺れている。華奢な背中はいつもと変わらない。
 なぜ?
 返事はない。
「えええええっ!」
「きゃー!」
「やっぱマジぃ?」
 不意に教室が喧噪に包まれた。何事かと顔を上げるとクラスメイトの目線がつぶてのようにぶつかってくる。
 シンジははっとして、端末を操作しネットに接続する。

『綾波さん、碇君に告白したって本当ですか? (Y/N)』
『Y』

 なぜ?
 騒ぎの中、背中はやはり振り返らない。わからない。答えはただ、『YES』なのだ。

 休み時間。
「綾波さん」
 背中と頬に刺さる視線が痛がゆい。
「話があるんだけど」
 見下ろすシンジに、座ったままのレイはゆっくり顔を上げて、頷いた。
 ざわめきがどよめきに変わるのを背中で無視して、二人は昼休みの屋上へと出て行った。







 屋上。
 レイは断りもなくシンジの足下に座り込み、手すりにもたれていた。それをシンジは困惑顔で見下ろしていた。
「なに?」
「……いや」
 なんかくつろいでる? シンジは微妙な温度差に戸惑う。
「座らないの?」
「えっ?」
 見ると、レイは膝の上にポーチを乗せていた。弁当箱である。
 今は昼休み。ここは屋上、天気はいいし、風も気持ちいい。手には弁当箱。教室を出るときの男子生徒の忌々しげな顔が目に浮かぶ。二人仲良くランチかよ、とそれは誤解だ。でもレイは?
「綾波さん、誤解してないよね?」
 間違いなく僕は君をフッたんだと。わかっているはず。妙な思いこみや自分の世界に浸るタイプの女の子には見えない。
「なんのこと?」
「なんのって……」
「わたし、お弁当食べるの遅いから」
 レイは箸を取り出して弁当箱を開ける。
「食べながら話しちゃだめ?」
 無邪気に小さな声で聞いてくる。ダメとは言えない。
 頭の上から話しかけるのが憚られて、仕方なくシンジも隣に座った。間にもう一人半座れるくらいの距離を空けて。
「碇君は食べないの?」
「……うん」
 風に乗って、柑橘系の柔らかな匂いが鼻をくすぐった。風にそよぐ短い銀髪が光に透けて青白く輝いていた。
 シンジはその優しい空気に溶けてしまいそうな自分に焦った。
「話って、なに?」
 少しずつおかずを箸で運びながら、レイは言った。シンジは気を取り直す。
「迷惑なんだ」
 切り込んだ。
 底意のない躊躇いは無益だと、父やミサトら大人とのやりとりで学んでいる。
「できれば、挨拶したり、近づくのやめてほしい」
「……どうして?」
 あくまでも静かにレイは問う。
「挨拶がいけないこと?」
「したことないだろ? 今までは」
「今は、したいの」
「ねえ」
 こっちを見て、とシンジはレイの横顔を見つめた。箸の手を止めて、レイが視線をよこす。
「僕のこと、好き?」
 無造作な質問だった。
 レイは微かにまつげを震わせ、言葉を探した。
「――――好き」
 俯き言われたのだから、思春期の少年なら誰でも一撃で胸を射抜かれる。それほどまでに綾波レイは可憐だと、シンジも思った。なにせ自分までもがほんの一瞬、胸を締め付けられてしまったのだから。
 そう、ほんの一瞬だけ。
「嘘だね」
 シンジは言った。







 昼休みのチャイムはとうに鳴り終わっていた。
 綾波レイは一人だけで屋上にたたずんでいた。風はいつの間にか冷えていた。細い二の腕を抱える。
 彼とのやりとりを思い出す。


「うそ……?」
 語尾が震えた。レイが動揺している自分を自覚するのは久しぶりで、珍しい。
 彼の黒い瞳はまっすぐに自分の目を貫く。数日前、あの職員室で気がついた。自分に近づく誰もがこの赤い瞳には萎縮するのに、彼の視線だけはしなやかな槍のように突き刺さってくる。けれど捕まえようとすると、彼の視線は痛みを残してすぐさまどこかへそらされてしまう。
 不思議な感覚。だから追いかけてしまうのだろうか。
「違う、わ」
「でも僕は君を信じない」
 なんて静かで凶暴なセリフなのか。レイの背中がゾクリと冷える。
「僕は来週この街からいなくなるんだよ」
 知ってるのは君だけだ、とシンジは言う。
「だから君は僕を選んだんだ」
 始業チャイムが鳴った。
 どれだけ沈黙していたのだろうか。レイは身も心も動かせなかった。
「……違う、って言うならここで言ってほしかったんだけどな」
 独り言のようなシンジの声は遠かった。
 あっと顔を上げると、既に彼は背中を向けていた。
「僕のこと利用するのは構わないけど、協力はしない」
 一方的な拒絶と非難。彼はそのまま去ろうとしている。止められなかった。なぜなら、
 彼の言うとおりだったからだ。
「言わなくていいことなんだろうけど……」
 最後にシンジは背中を向けたまま、言った。
「僕、君のこと嫌いだから」 


 綾波レイは思う。
 人との関わりは嫌ではない。他人はあやふやな自分の形を確かめさせてくれるから。
 ネルフのみんなに貢献することで自分の意味を知ることができる。自分はエヴァに乗ることで人と関わっている。今はそれだけだ。他に何もいらない。それはとてもシンプルで、気持ちのいいこと。
 けれど他人はそれ以外の何かを自分に求めてくる。興味、欲望、恋心、好奇心、虚栄心。なんであれ、自分にはエヴァの操縦以外に他人に与えるものはないというのに。
 彼らはわたしのすべてを自分の物にしようとする。そうならないと次には攻撃してくる。もう何年も、一方的な好意と悪意を嫌と言うほど身に受けてきた。この耐え難い煩わしさは、きっと自分が誰かの物にならない限り消えることはないのだろう。人は、誰かの物にならないといけないのだろうか?
 レイにとって碇シンジは「違和感」だった。
『碇君は来週一杯で転校することになりました』
 もうすぐいなくなるという彼は、レイにカケラほどの興味も示していなかった。
 乾いた視線、嫌じゃない。身近にいながら思い出すことが出来ないほど薄い存在が、急に輪郭を帯びた。
『……やあ』
 彼は過ぎ去っていく。その時、彼ならばと思った。どういう思考経路でそうなったかはよく覚えてはいない。だが彼と話したいと思った。今自分にまとわりついている邪魔者をどこかにうっちゃって。
 安心? 期待? なぜかはわからないが懐かしいとも感じる。彼に対する気持ちは混沌としていた。得体の知れない、初めての衝動だ。これが「好き」という気持ちなのではないのか?
 誰かと絆を結ぶというなら、結ばなければならないのなら、私は彼を選ぼう。



「――そうすれば他のうざったい連中から解放される? その男の子を虫除けにして」
 言われて、ぎくりとレイは喉の奥が詰まったような苦しさを覚えた。虫除け、とは乱暴な比喩だと思う。
 実験後の更衣室で話を聞いていた葛城ミサト一尉はこめかみをぐりぐりと押した。
「それは」
 違うと言いたかった。そうした効果はあったかもしれない。そうなればいいとも思った。けれどそれより先に好きだと思った。利用が目的だったわけではない。
「レイ、告白して何を得ようとしたの?」
 得る?
「……わかりません」
「じゃあ、あなたと、あなたに恋して群がる男の子達との違いは何?」
 責められているのだろうか。それすらわからない。レイの胸はざわついた。
 自分は、クラスの少年達のように相手に何かを要求しようとは思わない。自分にエヴァがあるように、碇シンジにも譲れないものがあるだろう。自分は彼から何も奪わないし、まして彼を所有しようなどとも思わない。人は人形ではない。
 ただ絆を結びたかっただけだ。「好き」だという思いの交換をしてみたかった。その思いを『嘘だ』と断じられたのがどうしても納得できないだけだ。
「私は……彼に何も求めません」
「だから、すぐ別れることになっても平気なわけ?」
 レイははっと顔を上げた。
 確かに、レイは彼が転校することを重く考えてはいない。二人は離ればなれになるだろう。けれどそれがどういうことなのかまでは想像しなかった。近くにいたとしても付き合い方など知らないのだから、考えが後回しにもなっていたのもある。
 なにより、転校は彼の事情であって仕方のないことだからだ。彼に文句を言うことでもない。自分が何か変えられるものでもない。自分がエヴァから離れられないのと同じではないか。
「一つだけ言えるのはね? レイ」
 上司の声にはため息と、少しのトゲが混ざった。
「あなたには、その男の子に好きって言う資格がないのよ」
 その言葉はレイの心を、レイが思うよりも深くえぐった。







 朝っぱらから携帯の留守電にミサトの意味不明なメッセージが入っていた。
 なんだか要領を得ない内容だったのでシンジは全部聞かずに消去した。
 ……あの子は生い立ちが複雑だから……エヴァが……私たちが……だから……
「だから、って言われても」
 特に何もすることはないのだ。シンジは学校へ行く。あと四日、静かに過ごすだけだ。


 無理だった。
「綾波さん?」
 校門の前に彼女が立っていた。
 ただでさえ目立つ少女が門扉にもたれて、物憂げに俯いている。いやでも注目を浴びていた。
「…………あ」
 上げた目もとが赤く腫れている。あまり眠っていない青白い頬がこわばって、何か言おうとする。
 一晩かけて考えて、考えて、しかし何も言うべきことが何もないのに。
「……」
 シンジはそんな彼女を置き去りにして、校門をくぐり抜けていく。
 レイは打ちのめされたようにその場に立ちつくした。
「…………」
 レイは途方に暮れた。悲しい。
 受け入れられないことが、ではない。信じてもらえないことが悲しい。お前の心は偽物だと言われることが悲しい。そして恐ろしい。
 人と絆を結ぶ資格がない。偽物だから。
 彼が好き? 好きじゃない? わからない。好きって何? 私は何を間違えているの?
 いつしかレイはシンジを慕うよりも、シンジに助けてほしいと願っていた。教えてほしい。どうすれば自分は人間らしくなれるのか。
 心地よいと感じていた乾いた風が、今はただ寒い。 







 それから二日間、シンジはレイの視線を背中に受けて過ごした。その何十倍もの視線を全身に受けつつ。それでもシンジは頑なにレイを無視しつづけた。
 構図としては、つれない男とけなげな女。というわけで一躍碇シンジはヒールデビューを果たしてしまった。
「おい碇、お前何様だよ」
 君らはどちら様ですか? とシンジはうなだれた。放課後の校舎裏。
「調子こいてんじゃねえぞ!」
 どういう私怨なのか知らないが、やっかみの類なのは間違いない。碇は綾波レイのカラダだけ弄んで捨てた、などという流言も飛び交っているので、案外義憤の士だったりするのかもしれない。ところでさっき連れ込まれる直前に遠くから見てるムサシ・リーと視線が合ったんだけど、まあ、どうでもいいや。と、シンジは腹を決めた。
「あのさ」
「あ?」
 べー。
 舌を出した。脇腹を蹴られた。



 顔に一発、脇腹三発。
「まあ、この程度なら」
 と、諦め顔なのはあと数日の我慢だからだ。うっかりやり返したりすると、鬱陶しい父が出しゃばって来かねない。
 シンジの素性を知る者はいない。ネルフ総司令の息子と知っていれば、誰もレイとのスキャンダルを意外とは思わないだろうし、校舎裏に呼び出したりなんて命知らずな真似はしない。
 綾波レイもまた、シンジとネルフ総司令との関係を知らない。パイロットに就役して七年余り、シンジと学校以外の接点は一度としてなかったのだから。
「あ……」
 下駄箱に綾波レイがいた。その手に掃除用具を持っていた。シンジは黙ってその脇を通り抜ける。レイはかけられる言葉もなくちらちらと見るだけで何も出来ない。
 が、ふと、おどおどとしていたレイの眉毛がぴくりと跳ねた。
「碇君」
 血が出ている。唇の端。
「え……あ」
 なんでもないよ、と答える前にレイの白い指が触れていた。
「いッ」
 シンジはぎくりと後ずさるのだが手を振り払えない。ぼんやりと傷を見つめていたレイの目が細く鋭くなる。
「これ……殴られたのね」
 大人しい碇シンジが人に殴られる理由を検索して一件のヒットを得た。
「私のせい」
 呟いて、ふらりとどこかへ歩き去ろうとする。
「っ、ちょっと、綾波さんどこ行くの」
「はなして」
 怒ってる。細められた赤い瞳に、シンジは冷や汗を滲ませた。
「いいから! 綾波さんのせいじゃないから」
「はなして」
「だから、そういうのが迷惑なんだってば!」
 ぴたりと活動停止する。電池切れのように。
「――――ごめんなさい」
 じっと俯いて。スカートの裾を握りしめる。人気のないのが幸いだったと心から思うシンジ。
 十人が見たら十人が僕が泣かしてるよと思うよこれ。
「本当に綾波さんのせいじゃないと思うんだ。それに」
 どうせあと少しの我慢だ。
「……碇君の言うとおりかも知れない」
 え? とシンジがレイを見る。
「私は碇君を……利用しようと」
 あぁ……と濁しながら、シンジは思った。こんなに積極的に喋る綾波レイは初めて見る。
「でも、私は碇君が好きだと思う」
「綾波さん……」
「嘘じゃない」
「嘘じゃないなら、錯覚だってば」
 シンジははねつける。
「どうしてそんなことがわかるの? 碇君に私の何が」
「僕はもうすぐいなくなる。それで君はほっとする。だろ?」
 シンジはあくまで断定した。レイはそれを否定も肯定もできない。
「君の目は、僕を必要としてない。君が必要としてるのは別のモノだろ?」
 別のモノ?
 預言のような、呪文のような言葉にレイは沈黙した。
 どうして? なんのこと? と喘ぐように言ったが、シンジは答えない。なぜか一層イラだったように軽い舌打ちを残し、背中を向けて帰ろうとする。
 だめ。だめ。
「じゃあ、どうして私はこんなに苦しいの?」
 絞り出すような熱を帯びた声に、シンジの足が止まった。
「無視しないで。こっちを向いて。話したいの。聞きたいの。私はわからない。私のことが、わからないの」
 溢れる、といった感じだった。感情が手近な言葉の器から零れている。
 あの綾波レイが。
 シンジは少なからず動揺した。罪悪感もある。少女からの切ない告白に対する少年らしい胸の高鳴りだって。
 でも、それでも確信は揺らがない。彼女への失望感はぬぐえない。
「だめだよ……僕は」
「明日」
 重ねて拒もうとしたのを遮って、レイが言った。
「明日、午前十時に駅で」
「……は?」
「一緒に、……デ、デートして」
 はあ!?
 たまらず振り返る。文脈を踏まえてものを言って欲しい。
「わ、悪いけど」
「明日だけ」
 お願いだから。
 レイは俯いて、シンジから顔は見えない。ふと、シンジはそのレイの瞳を覗いてみたいと思った。が、必死で抑え込む。そして突き放す。
「行かないよ」
「待ってる」
 キッと向かい合った眼は、今度は仇同士のようにぶつかった。
「……好きにすれば」
 シンジは顔を背け、歩き出す。
 逃げた。
 そう感じたのは、シンジの方だった。







 帰宅したシンジはまず夜勤明けで寝こけていた葛城ミサトをたたき起こして呼びつけた。
「ななななんのこと?」
「とぼけないでください! 綾波さんと話しましたねっ?」
 パイロットのメンテナンスはミサトの管轄だと聞いている。自分は頼んでもいないのにちょっかい出されているが。
「デートっていう発想がまず綾波さんじゃない。時間設定からして湖にでも行かせようってプランでしょう?」
 こっ心が読めるのシンジ君?! というミサトの表情を読みとって正解だと知るシンジ。
「ネルフに僕を、僕にネルフを持ち出さないって約束してくれたから、ご近所づきあいしてたんですよ? それなのに……」
 僕の心を裏切ったんだ、といじけたフリ。
「あ……あぁっ、ごめん! あの、そのっ」
 きれいにひっかかる大の大人。
「――で、でもぉ」
 ミサトが頭をかく。アタシがシンジ君のこと知ってるとは話してないし、それに、
「レイ真剣に悩んでるわよ? シンジ君にフラれてショックだったのは間違いないみたいだし……頭ごなしに拒否ることないんじゃない?」
「……でも綾波さんは僕のこと好きなんかじゃないですよ」
 シンジの言わんとすることはミサトもわかる。シンジがそう思うのは無理もないと。レイの心はあやふやだ。「好き」の定義を狭めれば、あるいはレイが自分の気持ちをそれと錯覚している可能性はある。
 けれど、それは誰しもが抱え得る誤差ではないだろうか?
「自分の本当の気持ちなんて、みんなわからないものよ、ぶつけてみないと。特にあの子は不器用だから」
「不器用って、何が?」
「本当の自分を見つけることが、かな」
 自分を持つことに慣れていないから。誰も、ネルフの誰もがレイに「自分」や「本当の気持ち」なんて尋ねなかったから。折にふれ、レイの主体性の無さはコミュニケーションに支障を来している。そしてレイがそんな自分自身にコンプレックスを持っていることもミサトは知っている。あくまで監督者として。
「僕には関係ありません」
 そしてシンジについても、よく知っている者として首をひねってしまう。
 転校が決まる直前にぴりぴりしていたのは確かだが、この数日の彼はドライに過ぎる。父親に鍛えられたのか鼻っ柱は強い方だが、こんな風にすかしたような、虚無的な態度をとる子ではなかった。普段から大人にもまれてスレたところもある、けれど、レイの話題に関しては努めてクールにしてはいないだろうか?
「……ねえシンジ君、レイに対してなんかムキになってない? レイのことよく知らないでしょ?」
 言われて一瞬、シンジはミサトに火花のような反発の視線を投げた。
 やっぱなんかあるわね? と身構えたミサトだったが、シンジはそれをすぐに引っ込めた。
「別に……僕にだって選ぶ権利はあるでしょ」
「ないわよ」
「え」
「この先一億人と出会ってもあなたがレイクラスの子に好かれる確率って使徒が再来するより万倍低いわよ? MAGIに計算させる?」
「…………はぁ」
 ミサト一流の挑発だったのだが、慣れたシンジには逆効果で。火照りかけた頭がぴしゃりと冷えたようで、ため息が漏れた。
「もういいですよ」
「行ってくれんの!?」
「明日は、転校先の学校に行かなきゃならないんです」
「そこをなんとか」
「ネルフは実験ないんですか?」
 あ。
「……どうだったかしら?」
「仕事したらどうなんですか」
 ミサトにあきれ顔を返したものの、この場もまたお茶を濁したのは結果的にシンジの方だった。







 明くる土曜。午前九時。
 更衣室で、レイは座ったままの仮眠から目を覚ました。
 徹夜で臨んだテスト。今日を空けるために志願した。立ち上がろうとしてふらついた。連日よく眠れていない上に、昨夜の実験は休み無しで行ったのだ。
 使徒が来ていない今、しかしエヴァパイロットであるというプレッシャーは常にある。幼い頃から、人類をその背に負うという重圧を心身に刷り込まれてきた。それがレイのすべてであった。本来ならば体調を整えた上で、厳かに臨むべき実験であるのに。レイの心は実験の後にしかなかった。
 初めて。自分がエヴァより優先して何かに取り組むなんて。
 碇シンジへの思いがそうさせるのか、碇シンジが言うことへの不安がそうさせるのか、それすらわからない自分ではあるけども。レイはため息をついて、壁に手をつき立ち上がる。
 乾いたLCLでごわついた前髪をぼんやりと見上げ、シャワールームへとよろめいていく。
 ――デート。
 その意味はわからない。碇シンジとは何なのか。この思いは何なのか。それもわからない。だが答えを出さなくてはいけない。答えを出したい。
 ローブを脱ぎ捨て、シャワーの温度を上げて、頭から浴びた。
 熱病にうなされたようなこの数日間。
 その口元に、自嘲のような薄い笑みが浮かんだ。彼が約束の場所に来るかどうかもわからない。いや、来ない確率の方が高いのに。綾波レイは確かに浮かれていた。何かを欲して、心から欲して、望む。それ自体が初めての経験だったから。
 わたしは何を望むの?
 それはこの苦悩の答え。自分の本当の気持ち。
 そしてそれが、もしも自分が信じた通りのものだったなら。受け入れてくれなくてもいい、彼はそれを、受け止めてくれるだろうか?
 






 同刻。シンジはデイバッグに筆記用具と、新しい学校の案内書をしまい込んでいた。
 午前中に向こうにつかなくてはいけない。時計を見る。大きく息を吐いた。
 綾波レイ。
 エヴァパイロット。
 クラスメイト。
「――――どうして、今になって…………レ」
 って何言ってるんだ。
 思わず漏れた独り言に慌てた。ため息と一緒に掃き出してしまう。
 からまる思考をほどかず捨てて、シンジはとにかく家を出た。
 

 駅前にはロータリーと大きな噴水、まばらな人。広場の時計は九時四十五分。
 シンジはしばしその場でレイを探した。ただ探しただけだ。
 その手には、松代までのチケットが既にある。
 レイはいない。いたならば一言引導を渡して、と思っていた。列車を一本遅らせることも出来る。が、シンジは改札をくぐった。
 逃げよう。
 ホームの階段を下りながら、そう思った。この街を離れると決めた時にもにもさんざん「逃げるのか」となじられたものだったが、それは気にならなかった。綾波レイだけが、シンジの胸に傷を残していた。
 ホームに並びながら駅前広場の方を見やるが、フェンスが邪魔で噴水は見えない。
 罪悪感? それとも……いや、やめよう。
 列車が風を切って、シンジの前に滑り込んできた。







「レイが?」
 第一報を聞いたのは午前九時半。
 葛城ミサトは、仮眠室で転がっていたのを跳ね起きて、医務室に駆け込んだ。
 医務室には、数人のスタッフと、赤木博士。
 そして青白い顔でベッドに横たわるレイの姿があった。
「どういうことっ?」
「静かになさいな。倒れてたのよ。シャワールームで」
 赤木博士が小声で告げる。レイの脈を取り終えると傍らの医師に指示を出し、ベッド周りのカーテンを閉めた。
「ここのところ体調悪かった上に、昨夜ちょっと無理してね。私のミスよ」
 と赤木リツコは額を叩いた。
「昨日の実験て、三時上がりでしょ?」
「それが、今日の午前の連動実験を続けてやったのよ。スケジュールは押してたし、レイの体と相談してマいていこうとは思ってたんだけど……あの子が大丈夫だって言うのに乗っちゃって、あたしったら」
「あちゃ〜……」
 天を仰いだのはミサトである。
「悪りぃ。それあたしのせい」
「はあ?」
 赤木博士……
 蚊の鳴く声とはこういうものか。ベッドからレイの呼ぶ声がして、カーテンを引いて驚いた。
 レイは点滴の針を抜きとって立ち上がろうとしている。
「ちょっと、レイ!」
「赤木博士……今、何時ですか……?」
「今……九時五十五分ね」
「………………いかなきゃ」
 ってどこへ? 目を白黒させる赤木リツコ。
「ちょっと待って、レイ」
 ミサトがレイの肩を押しとどめる。
「無理したらダメよ。待ち合わせ場所にはアタシが行って説明するから」
「だめ……です……」
「大丈夫よ、彼わかってくれるわ」
 彼、という単語にぎょっとするリツコをよそに。
「……っちゃう」
「え?」
「……行っちゃう……碇、君……遠くへ……会えなく……行かないと、もう……」
 荒い呼吸で繰り返す。シンジが転校するのは来週だ。高熱で混乱しているのか。けれど。
「レイ……あなた」
「おねがい……」
「行ってほしくないのね……シンジ君に」
 シンジ君!? って一体どういうこと!? と仰天するリツコに、ミサトは指で合図する。
 鎮静剤を。
「それでよかったのよ……レイ」
 レイは意識が薄れ、起きていられずにミサトにしなだれかかる。 
「頭で考えすぎてるのよ、たぶんシンジ君も」
「……シ……?」
「ミサト」
 用意できたけど。いいの? とリツコが目で問う。頷く。
「言えた立場でもないんだけど……対人能力の低い連中の集まりだから、ここって」
「あ……ぅ」
 細い腕に鎮静剤がそっと注射され、レイの体が弛緩していく。
「――ごめんね、レイ」

 
 




 午後六時五十分。
 レイは目覚めた。
 熱はひき、体はだるかったが、ずいぶんと時間をかけて起き上がることは出来た。
 午後七時。時計を確認して、ゆっくり諦めてゆく。
 夢を見た。
 夢の中で自分は待ちぼうけを食っていた。待ち合わせ場所に、シンジは来なかった。二人は会えなかった。夢の中の自分は怒りも悲しみもしなかった。ただ、じっと待っていた。待っているのが楽しかったのだ。心が躍っていた。だから待ち続けていた。目が覚めるそのときまで。
「起きたの?」
 ミサトがレイを見舞いに来た時には、もう服を着替えていた。念のため、系列病院に入院すると聞かされていた。
「はい。すみませんでした」
 頭を下げる。シンジとのことはおくびにも出さない。
「……また、会えるのよ?」
 しかしミサトが切り出した。
「彼と連絡はとれなかったんだけど……実は彼、今日転入手続きで長野に行ってるの。だからどうせ待ち合わせには来られなかったわ」
「……? どうして、葛城一尉が……」
 そんなことを知っているのだろう? 彼の名前すら教えていないのに。
「う〜……ワケはね……司令に聞いてほしいなあ」
 あたしが嘘ついたわけじゃないもん。基本的にシンジ君の存在はネルフの定めた最高機密なわけで。
「司令?」
「レイも何度か直接会ってるでしょ? 総司令」
 髭とサングラス。
 端的な識別情報が浮かぶ。世界中を飛び回っていて、大きな実験にしか顔を見せない自分達のボス。
「そ。碇司令」
「碇司令……」
 いかり?
「車ん中で話そっか。上の病院まで送るわ」







 環状線をゆっくりと走るルノー。
 午後八時を回った夜の街は静けさを増していく。風は心地よく涼しかったが、レイは寒いと言って窓を閉めた。
「碇君が……セカンドチルドレン……」
 レイは茫然と呟いた。
「候補、だったのよ。だからどうということはないけどね」
 ミサトはハンドルを握りながら言った。
「ただ、あなたとシンジ君は似てる、ってことよ」
 小さな頃から大人に囲まれていたのはレイだけではない。
 シンジもまた、特別な存在として好奇と打算の眼差しで見られ続けてきた子供だった。多くの大人が彼を利用しようとした。母の死を餌に、エヴァに乗るよう恫喝されたこともあった。誰であろう実の父親にである。
「でも一番タチ悪いのはあたしなのよね」
「……?」
 シンジ君の好きなように、シンジ君のために、と言いながら、自分の裏の欲望をシンジにも自分にも隠し続けてきた。レイとの仲を取り持とうとしたのも、レイをネタにシンジを引き留めたかったエゴが混じっていたのは間違いなかった。
 いつもそんな欺瞞と矛盾をほったらかしにしている。大人は徹しきれていないからだ。その点シンジは違う。まっすぐ、表だけであろうとしている。
「ぬるい騙し合いに慣れちゃうと、わかんなくなるのよ。自分のことも、他人のことも」
 ミサトは胸中の嫌悪感を短くまとめて切り上げた。やはり説教できる器ではない。
「シンジ君のこと好き?」
「え……」
 終わった話だとしても慎重になってしまう。
「……わかりません」
「それもひとつの答えよ」
 だけど大事なのは、自分の出した答えをどれだけ信じられるかなのよ、理屈じゃなくてね。そんな偉そうなことも言えない。あと、ちょっとかゆい。
 会話がとぎれた頃、ふと、レイの視界の端にキラキラと光が見えた。
「……噴水」
「ん……ああ、駅ね。もうすぐだから」







 駅前のロータリー。レイは一人そこに立っていた。
 ミサトには近くのコンビニで待ってもらっている。
 約束の場所。駅前の噴水。ささやかなライトアップを受けて、クリスタルのモニュメントの周りをガラスのような水飛沫が闇夜を舞っている。旧世紀の雪のように。
 誰もいない。レイの他には。
 ふらつく足をゆっくり踏みしめて、約束の場所へ。冷えたアスファルトが、心を冷やしていく。
 悔いはない。昨日までの悶々とした迷いは消えていた。
 夢の中の自分の思いは一寸の曇りもなく、今はこの胸の中にある。
 私は彼に会いたかった。
 会いたい、と心から願えた人がいた。それだけでいい。
 ガシャン。
 ライトアップが消えた。噴水が音もなくやむ。
 辺りが暗闇に包まれる。
「……さよなら」
 そっときびすを返した。


「クシュンッ!」


 レイは足を止めた。
 ゆっくりと噴水の方を見やる。
「ックシュ!」
 また聞こえた。
 瞼が震えながら大きく開かれた。
 音のする方へ足を踏み出した。胸が鳴る。壊れてしまわないだろうか。無意識に進む足がもつれる。
 噴水の壁の影に、膝を抱えて座っている人影が見えた。
「…………碇君」
 人影は、鼻をすすってうなだれていた頭を大儀そうに持ち上げた。
 寝起きのようなはれぼったい顔の、碇シンジ。
「あー……」
 シンジは顔を上げて、あくびをかみ殺す。もそもそと腕時計を見る。20時59分。
「九時って…………あ〜あ……」
 レイを無視するように、ため息をついて頭をかくシンジ。とまどいのまま固まっているレイに、ちくりと呟く。
「遅い」
「え…………」
「11時間待たせるのって。ちょっとないよ」
 非難がましく言ってまたうなだれる。
 11時間?
「碇君……朝から」
「こんなことなら、列車に乗っちゃえばよかった」
 行って帰ってきてもお釣りが来たじゃないか、と嘆く。
「ったく、いつの間にかよ……る?」
 柑橘系の香りがした。
 くずおれるようにシンジに覆い被さったレイは、そのままシンジの首の下に顔を埋めた。
 そのまま見上げるようにしながら両手でシンジの頬に触れ、震える唇をシンジの唇に重ねた。
 やわらかい。
 あたたかい。
 レイの思考が麻痺して、ばかになる。
 シンジは硬直していた両腕をなんとか動かして、レイの細い体に回した。指先にまでその熱を感じながら、徐々に力を込めて子猫のように抱きすくめた。
 やがて唇が触れ合う距離で、シンジは囁いた。恥ずかしさを堪えるように、バツ悪そうに。
「……ずっと、好きだったんだ」
 レイはそれが誰の声かわからずに、茫然としてしまう。
 ゆっくりと言葉の意味が身体に染みてきて、反射的にたちの悪い冗談だと思う。
「どうして……そういうこと言うの」
「初めて会ったのは第三ケージ。エヴァ初号機の前だった」
「……?」
 きょとんとするレイに、シンジは気まずそうに語る。10年も前の記憶。
 4歳か、5歳の頃。エヴァ初号機の前。たった一度だけ、二人は一緒に遊んだ。
『ぼくシンジ。……きみ、名前はなんていうの?』
『わっ、わたしは……レイ』
 シンジにはほかに友達がいなかった。優しかった母は死に、優しかった父も部屋に帰らない。地下の研究所に閉じこめられている日々。幼いシンジは孤独だった。
 初めて、この寂しい場所で笑い合える相手を見つけた。赤い瞳の、笑顔のきれいな女の子。無口だけれど優しくて、白い頬をすぐ赤らめるとても恥ずかしがり屋な女の子。一度で好きになった。
 友達もいないシンジにとって誰かを遊びに誘うなんて、恥ずかしかった。それでもレイに会いたくて。別れ際に、勇気を振り絞った告白だった。
『ぼ、ぼく、レイちゃん好きだからっ。ぜったい、またあそぼうね!』
『…………うん、またね、シンちゃん』
 白衣の大人に連れられていくレイの小さな背中ごしに交わした約束。
 次の日も、その次の日も次の日も、小学校に上がるために地上へ出るその日にも、シンジは約束の場所で待ち続けた。
 それなのに。
「わたし……」
 覚えてない。レイは愕然とする。
「そのすぐ後に、君はパイロットに選ばれたからさ」
 同じネルフにいながら、レイとシンジの距離は近くて遠いものとなっていた。
 時には近くをすれ違ったこともあるのに、彼女は自分に見向きもせず、大人の間で固く結ばれた唇は二度と笑いかけてくれなくなった。
『レイちゃん、こっちを見て、ぼくを見てよ、レイちゃん』
 気がついた時には、シンジが渇望した赤い瞳の視線は、すがるように一心に、あの木偶人形だけに注がれていた。
 エヴァンゲリオン。シンジにとってのそれはなんであろう、恋敵であった。
「僕が先にフラれたんだ」
 エヴァに負けた初恋なんて。忘れてしまいたかった。
 レイはエヴァしか見てなくて、エヴァしか必要としていなかった。中学に上がって初めて同じクラスになっても、シンジのことなど覚えてもいなかった。そのレイが今になってシンジを見た。けれど。
「エヴァを見る目とは……やっぱり違うと思ったんだ」
 結局エヴァに勝てないんだと。だからすねた。
 レイは、これまでのシンジとは思えないほど弱々しく繊細な声を出す少年に胸を締め付けられていた。必死で記憶をたぐるのに、彼を思い出せない自分が悲しくて、腹立たしかった。
「今、は……?」
 わたしはあなたをちゃんと見られているの? わたしのせいで、まだすれ違っているの? こみ上げる胸の痛みにぐっと耐えながら、レイがシンジに問う。
「……わかんないよ」
 シンジは俯く。偽りだと言い切っていたのも、わかるふりをしていただけだと、今は思う。期待して、裏切られるのが怖かったから。
「目を見たって、その人のことなんか……わかった気がするだけで」
 本当はわからない。だからこそ、ここで待っていたのかもしれない。
 自分の勘違いで、何かの間違いで、もしかしたら、あの娘の瞳の中に自分の姿を見つけることが出来るかも知れないと思ったから。期待してしまったから。
 今、潤んだ赤い瞳の中には自分だけが映っている。
 錯覚でもいい。
 シンジはレイの瞼に唇を寄せた。震える睫毛が閉じられて、溢れた涙がシンジの唇を濡らした。離れた後にこれでもかというほど頬を赤く染めたレイを見て、あぁこの子はレイちゃんだ、とシンジは懐かしさに胸が熱くなった。
 彼女の中に自分を見つけた。これほどまでに寂しく、彼女を求めていた自分を。
「碇君……?」
「ずっと、会いたかったんだ」
 二度目のキスはシンジが奪った。
 数分前から物陰から覗いている隣人にあとで一生分からかわれることになるとわかっていても。
 






 シンジが長野に転校して、二ヶ月が経つ。

 ミサトはシンジから電話があると自慢げにレイに報告する。レイへの嫌がらせのためだ。
 レイはレイでシンジからメールが届くとナチュラルに実験をサボる。これはミサトへの腹いせだが、あとで死ぬほど赤木博士に叱られる。
 使徒はまだ来ていない。
 学校ではラブメールの数がなぜか倍増していた。傷心のレイならオトしやすいと踏んだ連中かららしい。レイはそれらをすべてシンジに転送する。これはシンジへの嫌がらせ。最近、シンジは向こうで気の強い女の子に迫られて困っているらしい。正直に報告すれば疑われないとでも思っているのだろうか?
 春になったら、レイは長野へ行く。
 全人類が反対しようとも、あの人に会いに行く。











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