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 碇シンジの朝はいたずらに早い。
 この春から同居を始めた父は滅多に家に帰らない。にも関わらず朝から幸せそうにカレーなど煮てしまう。
 留守中父さんが帰ってきてもすぐ食べられるようにね、鶏モモがそろそろ微妙だったし。
 と、気遣いは中学二年生のそれではなく。
「母さん、いってきます」
 笑顔で挨拶する唯一の相手は、写真立ての中。


 必要以上に大人しいキャラクターとやる気の感じられない人格形成によってマイノリティ一路線をひた走る、碇シンジ14歳。転校生。でもとにかく目立たない。
 がやがやと騒がしい朝の教室に入っても声を交わす相手もいない。避けるでも避けられるでもなくまっすぐ自分の席にたどり着いてしまう。と、そこへ、
「あっ、綾波さん」
 誰かの声で、教室がぱっと華やいだ。
 綾波レイ。壱中随一のアイドルにして、かのエヴァンゲリオン・パイロットであるという公然の秘密の持ち主だ。
「おはよ……」
 喧噪の中心で囁くような細い声が、男子の青春をヒートアップさせる。寡黙な少女であるがその声音は決して冷たくはない。むしろ控えめに言葉を紡ぐその様子が、深窓の令嬢か某国の姫君かというほどに可憐なのだ。
 その台風の目が碇シンジに近づいてきて、隣の席に座った。ふと見上げたシンジと見下ろすレイの視線がぶつかる。反射的に照れて視線を戻したのはシンジ。
(あ……挨拶くらいするべきだったかな?)
 と、内気大王のシンジが軽く悔やんでいると、肩をこづかれた。
 見ればレイを取り巻く人垣が、邪魔よとばかりに尻をぶつけてくる。シンジは席を立ち、騒ぎが収まるまで廊下の隅へと待避することにした。
(……しかたないか、綾波さん人気あるし、あんまり学校来ないし)
 このようにして人々はこのお人好しの存在を忘れていくのであった。
 ただ一人、いつの間にか空になっている隣の座席を見て眉を歪める綾波レイを除いて。





(どうしていつもこうなの?)
 泣き出しそうな心の声。
 幼少時にエヴァパイロットの適性が認められてからというもの、市内にある別の国・ネルフ本部で殺伐とした軍事教練をこなす日々。たまに学校に来られることはこの上ない楽しみなのだ。
(なのに……だめ)
 というのも、
(碇君にどんどん嫌われてる)
 からである。
 気になる彼は自分がこの席で騒ぎに巻き込まれると決まって迷惑そうに席を立ち、授業前に戻ってきては二度と目を合わせてくれない。
 わかっている。自分が悪いのだと。ごめんなさいの一言も言えない、にこにこ笑うのも得意じゃないし、料理も出来ない。踊りはできるが歌はダメ。ネルフの教官によく言われる。『レイちゃんはかわいいんだけどなあ』
 このままではいけない。
 と、少女の偏った物思い、もとい偏った少女の物思いは、少女を斜め前へと押し出す。
(普通の女の子になりたい……)
 人類の平和は二の次だったりした。


 その日の授業時間。
 教師の声そっちのけで全神経を左舷九時方向へ集中させていたエヴァパイロット・綾波レイ。鈍い少年でなければ、寒気の一つも覚えていたかも知れない。
 と、シンジの机から消しゴムがコロコロと転がり落ちた。
 カッ!
 と閃く綾波レイの鍛え抜かれた反射神経。はっしと左片手で目標をキャッチする。あまりの早業に、シンジは消しゴムを落としたことにすら気付かないほどだ。
 気付かないほどだ。 
(……どうしよう……)
 レイは泣きそうだった。鋭すぎる運動神経に比べて、声をかける心の準備はまだ始まってもいない。
(……3、2、1、っ…………せーの……よーい……いちにの……)
 果てしなく慎重にタイミングを計っていると、シンジの方がいい加減不自然に差し出されているレイの手に気がついた。
 ……あぁ、拾ってくれたんだ。とあっさりその手から消しゴムをつまみ上げた。
 ありがと。
 と、はにかみ顔をレイの顔に寄せて小声で囁く。シャイではあるがこのへんに妙なてらいが無いのが碇シンジ。お礼と謝罪はいつでも言えるよい子に育っていた。
 が。
 不意に接近したシンジの瞳に動転したレイはバネ人形のように顔を背けてしまった。
 がーん! と、共に漫画的エフェクトに襲われる二人。
(あぁ……ばか、ばか……)
(お、怒らせた? なんで??)
 レイはもはや横を見ることも出来ず、シンジのキョロキョロ(オドオド)と不審(不安)がる視線を頬に受けて、消え入りたい気持ちで一杯になっていた。


 かくして、実に五日ぶりのフル登校も凡退に終わったレイはとぼとぼとネルフ本部の門をくぐり、すれ違う職員を戦慄させて回った。
 負のオーラと人類の存亡を背負って立つ女・綾波レイ。
「恋ですね!」
 と嬉々として密かに核心を突いた女性オペレーター(24歳・童顔)の話を聞く者はいなかったが、なぜかその日の射撃シミューションの成績は過去数年で抜群だったという。
 人類の存亡はかなりセンチメンタルな領域に左右され始めていた。





(……今日も綾波さん、変だったなあ)
 思い出して首をひねる碇シンジ。
(かわいいのに、よくわからないし、人気者なのに、無口だし。難しい人だな……)
 本人には恐ろしくて聞かせられないようなことをひとりごちて、マンションのドアを開けて入る。
「ただいま、と」
「ああ」
 ぎくっ、と立ち止まってしまう。まさか返事があるとは思っていなかった。
「父さん? 帰ってたの」
「ああ」
 リビングに入ると父が詰め襟の制服のまま、新聞を広げていた。
「あ、カレー食べたんだ」
「ああ」
 うまかった、とかなんとか言ってくれれば甲斐もあろうものだが、シンジは流しにうるかしてある皿に米粒の一つも残っていないのを見て充分満足だったりした。
「お茶淹れようか」
「いや、もう戻る」
 と、父は立ち上がって、重そうなケースを手に玄関へ向かった。
「しばらくメシはいい」
「うん」
「学校はどうだ」
「楽しいよ」
 本当に、と笑顔で言う。相変わらずさえない自分ではあるけれど、友達はまだだけど、気になる女の子だって居る。
「そうか。ならいい」
 そうして友情出演並みの露出度で、碇父は職場に戻っていった。家庭そっちのけな父の仕事について、父はシンジに理解を求めようとすらしなかったが、シンジはなんのわだかまりも抱いていない。
「あ……今度帰ってきたら、綾波さんのこと、父さんに相談してみようかな?」
 それはそれで画期的なアイディアではあった。





「綾波は今日も休みきゃ?」
「福生の方で戦自との合同演習があるんだってさ、パパが言ってた」
「はー……そら難儀やなあ」
 そんな話し声が教室のどこからか聞こえる。シンジはぼんやりと隣の席を眺めていた。
 窓の外では細かい雨が降り続いている。
「ええと、碇くん、ちょっと」
 教室の戸口から担任教師が手招きをしていた。僕? と近寄ると、A4大の封筒を手渡された。
「修学旅行の資料なんだけどもね、綾波さんの家まで届けてくれませんか?」
「は?」
「君と綾波さんはちょうど週番だし」
「僕、綾波さんの家知らないです」
「地図、用意しておきましたから。……いやぁ」
 彼女への郵便はネルフの検閲を通すので、時間がかかる。それに。
「他の人に頼むと大騒ぎになりそうですしね。その点碇くんなら、ね?」


 ね? ってなんなんだろう、と思いつつ。
 小雨の降りしきる放課後、シンジはレイの住む団地を訪れていた。
 目当ての部屋はすぐ見つかった。C17棟の402号室。シンジはガタガタのインターホンをぼーっと眺めて、しばし薄汚れた鉄扉の前に立ちつくしていた。
(綾波さんて……………………貧乏、なのかな……?)
 ノックをしたが返事がない。きっとまだ「仕事」に行ってるんだろう、とドアポストに封筒をねじ込んだ。



 同刻。
 レイはくたくたで霧雨に濡れていた。
 任務はいつもの要領で完璧にこなした。が、疲労感はいつもの倍だ。
「はぁ……」
 ため息とはストレスの透明な上澄みである。
 本部を出た時には傘もなく、送迎車の手配が面倒で、歩いて帰ってきていた。おぼつかない足取りで、ふらふら歩く。手にはコンビニで買った夕食と、普段は目もくれないファッション雑誌。五分悩んで買ってみた。交通安全のお守りを買う感覚にとても似ていた。
「――――ひょっとして、綾波さん?」
 不意に、呼び止められて顔を上げた。
「やっぱそうだ! おい! 綾波レイちゃんだよ!」
 二人組の高校生くらいの少年達が、無遠慮に自分の名前を連呼している。
「弟の中学なんだよ。こんなとこで本物に会えるなんて、エヴァのパイロットでしょ? すっげー」
 あぁ……と、レイのため息は果てしなく深い。
「ごめんなさい……急ぐから」
 と社交辞令を残して立ち去ろうとするが、立ちはだかられた。
「あ、ちょっと、濡れてるじゃん、傘入んなよ、家まで送るからさ」
 いい、いらない、と首を振る。こういう場合いつもなら毅然としたレイの声音だが、まるで力が無い。
 そんなこと言わずにぃ、と肩を掴まれそうなって、レイはけだるい頭と体で、警戒姿勢に入らざるを得なくなった。
 だらしなく歩いてるからこんなことになる、と自戒しつつこれから怪我をする敵を憐れむ。この程度のことに危機感を抱くような鍛え方はしていない。下手に疲れている分、むしろ手加減出来るかどうかが問題だった。
 南無、不用意にも少年の一人がレイの細い腕を引き寄せようとしたその腕を、ぐいっとねじ上げてやろうとした時。
「あれ? 綾波さん」
(って碇君?!)
 とんでもない邪魔が入った。
 どうしてここに?! それまで寝ていたレイの左脳のスイッチが入り、フル回転を始める。
(ここで投げ飛ばしたりしたら碇君はどう思う? 普通の女の子は袖つり込み腰とか掌底突きとか放つもの? 粗野。乱暴者。野蛮女? 鬼女!?)
 バッドエンドの品揃え豊富なレイの思考回路は、戦闘モードにぴたりと待ったをかけた。それが女の生きる道。か弱い女に男は萌える、はず。
「あん? 誰?」
「俺ら今レイちゃんと話し中なんだけど?」
「えっ? えと……」
 ……か弱い男はどうなんだろう? と汗がレイの背中を伝う。
 少年達は間悪く登場したシンジを直感的に邪魔者と判断し、やんわりと排除にかかった。
「い、いや、僕は」
 だめ! とはレイである。自分のせいで碇君に危害が? 考えただけで胃が持ち上がる。そんなことになるくらいならいっそ……と、いっそどうするのかはさておき、ともかく未来はシンジに委ねられた。
「兄ですけど」
「…………………は?」
 未来はおとといの方向へ。
 いやだってさっきアンタ綾波サンとか言ってたし、と詰め寄る少年の気持ちもわかる。レイでもわかる。ところが碇シンジの意外なケレン味は、まだまだ底が知れなかった。
 ついっとツッコミを避けて、シンジは少年達の肩に逆に手を載せた。
「あのね、向こうの角で黒服の人が監視してるんだよ」
 低い声で囁くシンジ。その口元がぐにゃりと気味悪く歪んでいて。
「ほら……やっぱり特別な人だし。ヤバいかもよ?」
 あなた誰?
 呆気にとられたのは綾波レイ。少年達はと言えば、妙にこなれたシンジの脅し文句と、ありそうな話に、辺りをキョロキョロ見回し始め、やがてぶつぶつとその場を離れていった。
「………………波さん?」
 え?
「綾波さん、あの、プリントを」
 はい、とレイが頭を持ち上げると、いつもの無口で大人しい碇君がそこに。
「先生に頼まれたんだ。ポストに入れておいたから」
 おいたから? と、レイが呆けている間に、シンジはレイの横をすり抜けていて、
「あ……あのっ」
 待って、とすがるように呼び止めた。
「あ、ありがと……」
 お礼の言葉。
 社交辞令ではない。そう、自分はシンジに助けられたのだ。改めて思い返せば、なんとなく、いやかなり、すごく嬉しいかも知れない。
 碇君が、わたしを、助けてくれた。最終兵器少女が夢にまで見た白雪姫的構図。
「……ごめん」
 それをなぜか謝られた。
 ???
 意外性の男に、レイの火照った頭は一転混乱のるつぼに。
「どうして、謝るの?」
「余計なお世話…………だったかも」
 その、後ずさるような物言いが、レイの胸を訳も分からず詰まらせる。レイの胸が嫌な風に鳴った。
「いか…」
「僕が出てこなくても、綾波さん、平気だったんだよね?」
 彼の怯えるような目が、レイから二の句を奪い。
「さよなら、綾波さん」
 雨が、強くなった。 


 どうやって自室に戻ったのか、レイは憶えていない。
 シンジの後ろ姿を見送ってから自室のベッドに倒れ込むまでループ状に固定された嫌な想像が、今最悪の出口を見つけてしまっていた。
 たぶん、一番見せてはいけない自分の暗部を、見られてしまった。一番見られたくないあの人に。
 きっと彼は、あの人達を排除しようとした、訓練された私の目を、見てしまったのだ。
 人を人と思わず。勝てるかどうか、倒せるかどうか。見極め、攻撃される前に攻撃する。そう教わった。彼らは悪人だったか? 関係ない。自分こそが最優先だから。
「そう教わったんだもの……」
 ファッション雑誌は道端のゴミ箱に捨ててきた。シンジの前で女の子を取り繕おうとしていた自分が恥ずかしくて哀れだった。
 自分は嫌われた。どこか無理な想像なのに、どうしてか綾波レイはそうに違いないと思った。それは、きっとエヴァのパイロットになった時からいつも抱いてきた不安だったから。
 10年の過酷な訓練でも一度として流したことのない涙が、一筋だけ流れて頬を冷やした。


◆ 

 
「だーかーらー……なんであたしにレイのこと聞くわけ? あの子ほとんど技術部預かりじゃないのよー」
 葛城ミサトは作戦準備部長室で書類の山に埋もれながら憮然と呟いた。
「パイロットの監督はあなたの仕事でしょう」
 まっずいコーヒーね、と赤木リツコは眉をしかめてカップを置いた。だったら飲むなよ、と淹れた旧友が睨み付ける。
「そんなに訓練ひどかったわけ?」
「完璧よ。数値は」 タバコに火をつけるリツコ。「だから。デジタルの範疇外だから、あなたに言ってるのよ」
「数字出してんならいいんじゃないの?」
「真面目に聞いてる?」
「ふむ。そういや今日あの子、勝手に徒歩で帰宅したらしいわよ?」
「呆れた……平和ボケして」
「んまぁガードがついちゃいたんだけどさ。なんか途中でかっこいいお兄さん達にからまれてえ……」
「言わんこっちゃない」
 パイロットが傷害事件の加害者になんてなったらどうするの? とリツコ。
 そりゃ握りつぶすだけだけどさ、とミサト。暗黙の会話である。
「そのへんひっくるめて、助けてもらったらしいのよ。同級生の男の子に」
「男の子?」
 首をかしげるリツコ。そういえば何日か前にマヤが……半分も聞いてなかったけど。
「碇シンジ君、ていうんだけどねー」
 すすろうとしたカップの手がぎくりと止まった。
「……いかり、くん?」
「そ。保安部員がいるのも勘づいてたみたいで、うまーくやってくれたんだってさ」
「レイは?」
「どうも、なんかあったみたいねー」
 と、片手に持っていたレイを呼び出し中のままになっている携帯電話を見せるミサト。
「意外と仕事してるのね」
「あぁら、なんかおっしゃいましてえ?」
 とミサトは伸びをしつつ、机の書類を脇にドシャーッとうっちゃって指をバキボキ鳴らす。
「何から始めますかね?」
「マヤを呼びましょう」
 リツコはピッと携帯電話の電源を入れた。





 一方のシンジは、餃子の皮がうまく包めなくていらいらしていた。
 などと言うと真性の馬鹿かと思われてしまう。彼だって考えていたのだ。
 ――――ごめん、余計なことして。
 嫌味でも、卑屈になっていたわけでもなかった。シンジにはシンジの葛藤がある。
 さっきの自分は正しいことをした。これで綾波さんと少し友達になれるかも知れない。そう思ってうかれもしたのだ。二秒くらいは。
 しかし思い出してしまった。
 いつだったか、誰だったか。とにかく誰かが誰かにいじめられていた。かわいそうに、泣かされていた。みんなとちょっと髪や目の色が違うというだけでいじめられていた。いじめている子達が許せなかった。こんな奴ら、僕がみんなのためにやっつけてやる。幼いシンジは言った。
『おとうさんはえらいひとなんだ、おとうさんにたのんで、おまえらなんかやっつけてもらうからな!』
 それ以来、老若男女古今東西、碇シンジに友達はいなくなった。
 どうして?
 きっと諭してくれたはずの母も、叱ってくれるだろう父も、傍にはいなかった。だったら自分で考えるしかない。シンジの慎ましやかな自己批判の歴史はそこから始まる。
「あ、作りすぎた」
 20コも食べられない。父さん、帰ってこないかな。
 レイをかばったことを後悔はしていないし、うまくやったとも思う。それでも二秒後に、綾波さんに気に入られよう、という下心を自覚してしまうと、どうにも冷めてしまった。もしかしてまた僕は間違ってるんじゃないの? と。
 弱気過ぎるかな? 母さん。人から疎まれるのには慣れてるんだけど。
「………嫌われたくないなぁ」
 あの子には。
 ぼそっと呟いて餃子30コ目に突入。母が生きていれば、お父さんそっくりね、などと笑って一緒に餃子を食べてくれたのだろうか。





「明日は、文化祭本番です! 明日の当番のプリント、みんな持ってるわね!」
 はーーーい。と、壇上の委員長に返事を返す教室一同。
「っちゅうか、内装さっぱり進んどらんやんけ。喫茶店やろ?」
「仕方ないさ。この時期は運動部の奴らは大会で戦力になんないしさ」
「だ・か・ら、アナタ達が働くのよっ! 」
「綾波さんはー? ここんとこずっとお休みよねえ……」
「なんか、ネルフが忙しくて、明日も無理なんだって。先生言ってた」
「手の空いてる人は残ってねーって言ったそばから逃げんな相田ァ!!」

 普段さっぱり目立たない碇シンジ。裏方作業となると、さらに目立たない。
 飛び交う怒号とチームワークの軒下で、黙々と飾りを作る手作業に没頭する。
「ぅおーい。釘とってえな」
「あ、うん」
 近くで厨房ブースを仕切る壁のベニヤ板を立てかけていた少年に、工具入れを手渡す。
「お、すまんな転校生」
「鈴原っ、碇君でしょっ」
「ん? あぁ。すまんすまん」
「いいよ別に」 とシンジは笑っている。
「もうっ。転入してから三ヶ月も経つのに」 と委員長は呆れ顔。
「まーまー、おっかない顔しなんな」
「そうそ、明日は愛想良くウェイトレスしてくんなきゃ困るぜえ?」
 と、メガネの少年がデジカメの手入れをしながら言う。
「困るってなによ?」
「そりゃあ、やるからには儲けないと! 前宣はバッチリ、某ショップから可愛い衣装だってビシッと調達したんだからな! あーあ、綾波が明日来ればなあ。 ウェイトレス綾波レイ! これだけでごはん三杯、集客力三倍なのに」
 メガネの少年が天を仰ぐと同時に、ジャージの少年はすすすっと距離を置く。
「どういう意味だ? コラ、相田……」
「は?」
「うちらじゃ客が来ねえってか?」
「はッ、たっ、いやっ」
 合掌。
 なにやら鈍い衝撃音の混ざった騒ぎを背後に、デイバッグを手に取りながらぼそっと呟いたのは碇シンジ。
「……綾波さん、文化祭来たかっただろうな」
「おっ?」
 シンジの呟きにぴくりと聞き耳をたてた少年が、がしっとシンジの首に腕を回す。
「なんやなんやなんや転校生、綾波が気になるんか? お?」
「ちょっと鈴原!」
「うん」
 うん? と固まる二人。
 てっきり驚いて赤面するかと思った碇シンジは、痛ましそうにレイの席の辺りを見やっていて。
「綾波さん、文化祭の分担決めるとき、寂しそうにしてたから」
「え……」
「ほ、ほーなんか?」
 あのポーカーフェイスでクールな綾波レイが?
「あと、ウェイトレス姿も見てみたかったし」
 えへへっ、と笑って「じゃ夕飯の支度あるからお先に」と教室を出ていく。その直後、
 うわー、きれい! この飾り作ったの誰ー? すご、細かーい!
 机の上に置かれた、リボンの花飾りを見つけた数人が感嘆の声を上げる。ジャージの少年が気がついたように「アイツ下の名前なんちゅうたっけか?」と尋ねるが、隣の委員長も「えっ」と口ごもってしまうのだった。





『――実験段階、フェイズ3に移行……記録後、引き続き連動実験に移ります』

 オペレーションルームに響き渡るアナウンス。
「ふあああ………おふぁよ………どお?」
 葛城ミサトは眠そうな目で背後から、実験責任者の赤木リツコに呼びかけた。
「最悪よ」
「ここ二週間、ずっと下降線ですね……」 若い女子オペレーターがミサトにも聞こえるように報告する。
「あららら……今日は司令も見てんだけどねえ」とミサト。
 某所別室で髭メガネの中年が目を細めているとかいないとか。
「……あ。司令に頼んで何とかしてもらうってのはどお?」
「何を頼むんだか知らないけど、それ書類にして提出できるの?」
 リツコが寝ぼけまなこのミサトをにらみつけた時。不意に、オペレーターの伊吹マヤが声を上げた。
「先輩、来ました」
「なに? レイどうかしたの」 ミサトが身を乗り出す。
「1030から1145、1330から1600までだそうです。……難しいですね」 と険しい顔のマヤ。
「それ確かな数字?」 リツコが書類をせわしく繰る。
「なんだそれつってんの」
 のけ者にされたミサトがマヤの頭を鷲づかみ。
「きゃあっ、あ、あのっ、これっ」
 と、マヤは携帯モバイルのディスプレイをミサトに見せる。
「…………2年A組? 碇シンジの、文化祭クラス展示タイムテーブルぅ?」
 オペレーターの注目を浴びて、頭を引っ込める。
「……よくこんなの調べたわね」
「ええまあ、中学校のデータベースと生徒数名にちょこっと」
「あっぶないことするわねー………仕事中に」
「私の指示よ」 と赤木技術部長。「これも仕事」
「でも時間がわかっても、レイちゃんの不調で実験が遅れに遅れて今日はとても……」
「なりふりかまってらんないか……」
「ミサト何もしてないじゃないの」
「これからしましょ?」
 にへらっ、と。作戦準備部長の唇の歪みにリツコは寒気を覚えた。





 初めて出会ったのは春、ネルフ本部近くの高台に望む児童公園だった。
 ケージ内の冷たいブリッジに膝を抱えて座り、レイは思い出していた。
 こんな風な、実験の待ち時間、逃げ出すように施設を抜け出して行った昼の公園。
 少年は野良猫を膝の上に乗せてベンチに座り、泣いていた。
 見るつもりはなかった。なかったがいつの間にか見つめていた。男が泣いているのを見るのは初めてだった。近づきすぎて目が合ってしまった。 
「……サボリ?」
 と少年はレイの壱中の制服姿を見たのか、悪戯っぽく笑った。いえ私は、と言おうとしてやめた。
 この街の人じゃないのかも知れない。この街で私を知らない人はいないから。
「あなたも」
「天気いいもんね」
 ふと、少年のジーンズの膝の上、気持ちよさそうにまどろむ子猫に見とれた。
「抱いてみる?」
 いや、そんなつもりは全然ないのだけどと思いながらも、なぜか引き寄せられるように隣に座り、手を伸ばしていた。撫でられて身じろぎする猫。あたたかい。
「……初めて触った」
「ほんとに? この街は野良猫あまりいないのかな」
「エサをあげたの?」
 目が合えば逃げ出す野良猫なら見かけたことがある。
「ううん。野良は自分でエサを探さないと。寒そうにしてたから」
 膝を貸しただけ。見れば少年は猫の背を撫でてやるでもない。
 もう行かなきゃ、と少年は言った。すると猫はくいと首をもたげ、するすると膝を降りてベンチの下に潜り込んだ。
「さよなら」
 と少年はそのままどこかへといなくなった。猫はいつの間にか消えていた。
 一ヶ月後、同じクラスに転校生としてやってきた彼はレイの事を憶えていなかった。
 なぜあの時子猫に近づいたのか、なぜ彼のことを憶えていたのか、ずっとわからなかった。
 でも今はわかる。
 かわいらしい子猫に見とれたのではない。
 自分は、彼の膝の上であたたかそうに眠る子猫が、無性に羨ましかったのだ。
 ふと薄寒い風を感じて、温度調節を効かせたはずのプラグスーツの膝をぎゅっと抱き寄せた。ちっとも温かくならなかった。
「レイ」
 不意に呼ばれて、叱られた子供のように振り返る。
 目があった上司は、イタズラする子供のように笑っていた。


 ――作戦準備部より緊急提議を司令部に提出。
 三日後の実弾演習に向けたエヴァ実装備点検に不備の恐れあり。パレットガン及びパレットライフル計三挺の技術部による速やかな再点検と再試験を要請する。
 本日午後より、最優先にて――


 バンッッ!
「……結っ局うちに泥かぶせるんじゃないの……ミサトっ!!」






「暑い……」
 と呟いたのは誰でもない。その場にいる全員である。
 文化祭当日。


 昼を過ぎて気温は上がる一方。喫茶・甘味・コーヒーショップ。およそ中学の文化祭らしからぬラインナップも、この暑さを見込んでこそであった。
「2Dがアイスコーヒー100円だって!」
「なにいぃ!! いきなり半額か?!」
「3Aは麦茶を無料配布してるよ!」
「くそ、氷だ! 氷ほじゅうう!! 誰かダ○エー行ってハ○麦茶買ってこい!」
 ミクロ経済戦争なども勃発して、祭りは概ね盛況であった。


「交代だよ」 とシンジ。
「あ〜、助かった〜。こん中暑くてたまんねえよ!」
 暗幕で仕切られた厨房ブースの中は空気が一段と熱くて重い。中では持ち回り制でお菓子とジュースの盛りつけが行われていた。
「あー………二時かー。演劇始まったなぁ」
 と、暗幕の裏、シンジの傍らでジュースをついでいる相方の少年が呟いた。
「演劇?」
「うん。体育館でやるんだけど、今日になって彼女が出ることになったらしくてさー、いきなり言われても困るっつのなー」
「彼女?」
「うん。カノジョ」
 ふーん……? なんだかよくわからないけど、
「ここ、僕一人でやってようか?」
「マジで!!」
 と、シンジの腕をとりながら確認する声にハテナのイントネーションが無い。
 悪い! 三十分したら戻ってくっからさあぁぁ……、とすごいスピードで駆けだしていくのを見ると、いいことしたなあとちょっと嬉しい碇シンジ。
 途端に注文が増えたりするのは、彼のような人間にとっての予定調和である。


 その頃校内某所では、ドリフトターンを決めるスポーツカーのアトラクションが来校者の度肝を抜いていた。





 煙を上げているのは幸いタイヤだけだった。
「起きてる〜? レイ」
「はい」
 助手席で涼しい顔でいる綾波レイ。三半規管のデキが違う。
「いいんでしょうか? 私のせいで実験が遅れてるのに」
「そーねー」
 とハンドルにもたれる葛城ミサト。フロントガラスの向こうでうわっすげえ美人! と叫んでいる(想像)中学生諸君に手を振りつつ。
「言っちゃうとねー、あなたのためにやってるわけじゃないのよ」
 ごめんね? と舌を出す。
「毎年マギの試算する数値は変わってきてるでしょ? 使徒再来の確率…………今年は何%下がるかしらね。でもたとえ“万が一”まで下がったとしても、私たちは怯え続けるし、あなたを使い続ける」
「それはわかって」
「説明すると長くなるから」 と葛城ミサトはレイの口を指で塞いだ。「言いたいことだけ言うと、あなたには、自分が何を捨てていて、自分に何が残っているのかを、いつも考えておいて欲しいの。1か0かっていう人もいるけど、私は好きじゃないから、無責任を承知であなたを学校に通わせてる。でもこれは何もあなたに限った事じゃあないわ。あたしだって、ないものねだりと失望を繰り返して折り合いをつけてるの。わかる?」
 よくわからない。首を振る。けれど、胸の奥がうずうずする。遠くで少年少女達の歓声が聞こえる。
「いってきます」
「いってらっさい」
 脱兎のように駆けだしていく背を見つめながら、言えなかった台詞が頭の中でふわふわと漂った。
 あなたは私たちの人形じゃない。
 言えるはずもない。





 その頃ブース内の碇シンジは、だれていた。
 注文数は時間を追う毎に減っていき、暇なくらいではあったのだが、熱いのと退屈なのとでモチベーションは限りなく低かった。カノジョ持ちの彼は40分経っても戻らなかった。
 それはまあいいんだ、けど……?
 そして交代後1時間、シンジはあることに気がついてしまう。

「くそおお!!」
 A組作戦参謀は予想外の苦戦に苦悶していた。品揃えで誤算があった。アイスクリームがあれほどまでに需要を見せるとは。隣の2年E組の「ヒヤヒヤ喫茶アシノ」。午後に来て驚くべき客足の伸びである。対してコスプレという本能的もとい視覚的宣伝効果をてらった戦略は尻下がり気味。
 今からコンビニで高いアイスを買ってきても予算倒れ。どうする? どうする? ここで一つドカンと一発花火をあげれば………とそこに。
「あ……あれは、あやなぶゲッ!!」
「綾波さん!!」
「綾波さんだー!!」
 飛び上がったメガネを踏みつぶし、教室の前に最強援軍を迎える人垣が出来る。
「……あの、こんにちは」
「こんにちは……じゃなくて! 平気なのっ?」
「実験、お休みになったから」
 っしゃあああ!! と叫ぶ生徒の外側から、一人あのう……、と景気の悪い声を出す少年が一人。あのー、あのー! と呼びかけても誰も気付かない。そこへプラカードを持った委員長が上がってきた。
「碇君? 何跳ねてるの?」
「あ……いや、実は」
 えええええええええっ!!?
 絶叫が辺りを制圧する。音源を見ると委員長が碇シンジにつかみかかって固まっていた。
「ケーキ……全滅?」
「……たぶん」
 ええええええええ(以下略
 暗幕でへたり込んでいたシンジは、前日に買い込んだケーキの在庫のクーラーボックスが半開きになっているのに気がついた。いけないけいないと閉めたところ、ぱこんとまた開いた。それを3回ほど繰り返して中を覗いてみると。
「なんだかどれも人肌以上に……」
 どうしよう?! まだ3時間もあるのに、メニューが半分になっちゃう! 誰だよ壊れたクーラーボックスなんか持ち込んだヤツァ?! 相田ぁ?!
 責任の所在が明らかにされた辺りで、シンジは謎の人垣の中心にいる人物に気がついた。
「あ」
 綾波さん……
「い」
 碇君……
「……こんにちは」 とかすれ声でシンジ。
「こんにちは……」 とうつむき顔のレイ。
 ととにかくっ、と焦りまくったスタッフ一同は二人のぎこちない空気には気付かない。
「綾波っ、ウェイトレスやってくれよっ!」
 と叫んだのは瀕死のメガネ。メニュー不足を色物でカバー。その戦略は現状にかなっていた。そうだ! そうよ!
「あ、でも制服……」
「私脱ぐよ!」と誰かが叫ぶのだが。
「なんの騒ぎや?」
 とそこへおっとり刀でポテトチップをかじりながらジャージの少年。
「あれ、やばいんと違うか?」
 アゴでしゃくった先で、シンジが一人で注文をとっては客に頭を下げていた。
 それを見たレイがさっと人をすり抜けて暗幕の中に飛び込んだ。





「オレンジジュース1つ……オレンジ……?」
 手近に置いてあったメモを見て、薄暗い暗幕の中でキョロキョロとするレイ。そこへ、メモを片手にシンジが飛び込んでくる。
「あっ」「あ」
 とお見合い。している場合ではない。
「碇君、注文、なに?」
「あ……っと、オレンジジュース2つ、コーラ1つ」
「オレンジ……あった。コーラは」
「これ。そっちからコップ出してお盆に並べてよ」
「はい」
 たどたどしく、作業を分担する。暗幕をかき分けてウェイトレスの女の子が悲鳴を上げる。
「だめ〜、お菓子が無いとお客さん出ていっちゃうよ〜!」


 廊下では、首脳陣(暇な連中)による協議中。
「ここは赤字覚悟でアイスクリームを入荷するか……」
「ええけどわいは金持ってへんで?」
「お金かけるのはダメ! 第一アイスを入れるクーラーボックスも無いし」
「ポテチでええんやないかあ?」 ぽりぽり。
「いいと思う」
 はい? と振り向いた一同。碇シンジがおずおずと。
「コンビニのお菓子で済ませちゃおう。飾り付けでなんとかなると思うよ」
「そ、そうかあ?」
「薄味のスナック菓子、クッキーとウエハース、板チョコ、全部一番安いのでいいんだ。あとチーズとか蜂蜜とかがあれば」
 委員長が頭の中でそれらを並べてふんふんと、考えを巡らす。
「いいかも……ナイフと……」
「おろしがねとか」
「そっか! 私家庭科室から取ってくる! 鈴原っ、買い出し!」
「あんな狹いブースで調理するのか? お客さんが待ってくんないって! 綾波もひっこんじゃってるし」
「だから、アレ取っちゃおう」
 さらりと、シンジが暗幕を指さした。





 ガタガタガタと一段落の後、リニューアルオープン。
「? なんかさっきと違うね、ここ」
「手作りお菓子だってさ」
「あっ、あの子ってもしかして!?」


「綾波さん、これ頼むね」
「はい」
 店内は様変わりしていた。暑苦しい暗幕が取り除かれ、オープンキッチンを教壇の上にしつらえて、お客の顔を見ながら配膳する。
 ビスケットに蜂蜜をかけて砕いたスナック菓子をまぶす。クッキーに、砕いたチョコレートとおつまみアーモンドをふりかける。ウエハースにマーガリンとチーズとラズベリーのジャムを載せて花形に盛りつける。
 次々と思いつくままにレシピを編み出していくシンジ。そしてそれを一度見ただけで寸分違わず再現して量産するレイ。いつの間にか三角巾で後ろ髪を結わえ、青いエプロンだけウェイトレスと揃えて、シンジと二人で厨房を切り盛りしていた。
 誰もが刮目する手際の良さである。シンジは、既製品を間違わない程度にミックスすればまずくはなかろう、と実はかなり適当。綾波レイは職業技術と言おうか、単純作業のトレースは得意中の得意なのだ。
「ああ、あそこで作ってんだ。あの子かわいー」
「これ、あれでしょ? あのお菓子だよね。チョコなんかかかってたっけ?」
「これおいしいわね。どうやって作るのか訊いてみましょうか」
 すいません実は急造で適当です、とは言えない。声をかけてくるおばさん達ににこにこ愛想を振りまくのはシンジの役目。
「お姉ちゃん、これ作ったの?」
 と小さい子供になぜか群がられる綾波レイ。うん、ええ、そう、……そう? と言葉少なに目を白黒させるのだが手は休めない。
「綾波さん、これ食べてみて」
 と口にクッキーを運ばれたので反射的に口を開けた。はむ。
「あまい……」
「グラニウ糖は余計だったかな。んー」
 とまた適当に盛りつけをいじるシンジ。
 一方、綾波レイは、クッキーを飲み込んだ姿勢でたっぷり10秒フリーズしていた。
 あーんって。あーんって。碇君が私に。碇君がわた(略)
「これは?」
 ってまたあーん、と。ぱく。
「……おいひい」
「よし。……って綾波さん? 綾波さん??」 


◆  


 ヒグラシが鳴く。薄暮の空。
「――しょっ、と」
 自転車置き場で、最後の数台の中に残った自分の自転車を引っ張り出すシンジ。
 甘い時間は過ぎ去って、午後五時半。黄昏時。
 人の潮が引いた校舎で生徒達はだらだらと片づけを始めていた。「来客数400名突破」という張り切り過ぎた記録を打ち立て、2年A組の喫茶店も幕を閉じた。片づけを終え、帰途につく。


 校門を出ると、綾波レイが立っていた。
 って綾波さん?
 先刻、人混みの向こうに連れ去られる後ろ姿を見送ってきたばかりだったので驚いた。見ればきちんと鞄を持って、帰宅しようという格好だ。
「あ……あの、帰り?」
 こくりと頷く。さっきまではあんなに近くで呼吸をしていたのに、今ではなんだか近寄りがたい。
「そう、あの、それじゃ……………………………………………って帰らないの?」
「……あ、あの……」
 かくしてシンジの自転車の荷台に腰掛けて二人で帰るという、昨日までは想像もつかなかったシチュエーションは成った。綾波レイ一世一代の待ち伏せの成果である。
 さっきはどさくさで急接近して幸せ……ではなくてうやむやになってしまっていた。自分は碇シンジに嫌われているのか否か。それを確かめないではなんのためにやって来たのか。などと思い悩んでいたら、坂道にさしかかって必死になってペダルを踏んでいるシンジに気付くのが数分遅れた。


「大丈夫?」
 ベンチで休憩。息も絶え絶えになったシンジに、近くの自販機でジュースを買って渡す。
 気がつけば、眼下にネルフ本部を望む高台の公園に来ていた。レイがシンジに初めて会った場所。
 呼吸が一段落ついた頃、シンジがぽつりと呟いた。
「――ここに、猫がいたよね」
 そうね……
 と答えてレイは固まった。
「あれ? 憶えてない?」
 シンジの方はひどいなぁという顔でレイを見る。
 ちょっと待って。
「忘れてたのはそっち」
「え?」
「だって」
 あの日教室で再会したときに、はじめまして、って。
「みんなにね」
 隣の席に来て、よろしく、って。
「言うでしょ、普通」
 でもでも、そんな、どうして、憶えていたなら、それならそうと。
「な、なんで怒ってるの? 綾波さん」
「どうして」 と睨む。
「だだだって、話すほど話した訳じゃないし…」
 ごにょごにょと。
「………碇君は、私が嫌い?」
「え゛」
 碇シンジ、思考停止。
 2秒後、レイ、激しく後悔。
 10秒間誤魔化すセリフを考えて挫折。途方に暮れる。
 20秒後、シンジ再起動。
「どうして?」
「それは……」
 私がみんなに好かれて、みんなから離れていってしまう理由。
「私がエヴァのパイロットだから」
「……どうして?」
 シンジは問いを重ねた。わからない、と。
 そうね、きっと誰もがそういう顔をする。でもあなたは……あなたは、わかっているくせに!
 思ったときには溢れていた。
「初めて会ったときには話しかけてくれた。でも学校で会ったときには話しかけてくれなかった。私がパイロットだって知ったら、私のことを知ったら、遠ざかっていったもの。あのときもそう、碇君がいなかったらわたしはあの人達を病院送りにしてたもの。だから碇君はわたしを、わたしのことを」
 軽蔑したんでしょ? 普通じゃないって。
「……ごめん、僕……」
 謝るシンジの声が、あの雨の日と重なって、レイはまた後悔した。
 言わなきゃよかった。
 言わなきゃよかった。
「僕は……」
 聞きたくない。
 言わないで。
「初めてじゃないんだ。言わなくて、ごめん」
 …………
「……え?」
「ここで綾波さんと会ったの、初めてじゃなかったんだ」
 あの日。
 ここで君と会う数時間前に、もう僕は君を見ていた。
「君が零号機のエントリープラグに入るのを見てた。10年前、そこで僕の母さんが死んだんだ」





 無人のケージの桟橋に一人たたずむサングラスの男。目の前にはオレンジ色のプールに漂う紫色の巨人。
「……菓子をな。作ったそうだ」
 男はぽつりと呟いた。
「レイと二人でな。学園祭で、楽しかったそうだよ」
 手のひらの中の携帯端末の画面には息子からのメール。文化祭の閉会と同時に送ってきてくれたのだろう。目をキラキラさせて報告する息子の顔が目に浮かぶ。
「菓子の評判がよかったと……あいつは器用だからな…………君に似て」
 男が目を細めると、薄暗い巨人の瞳が、ほの光る水面に合わせて、ゆらりと微笑むように揺れた。
 




「碇………司令?」
「父さんと会ったことある?」
「……何ヶ月かに一度か。大きな実験の時に」
「怖くない? 父さん」
 と苦笑する。
 様々な違和感が混在して答えに詰まる。彼の息子が彼で、彼の父が彼?
「似てない……」
「だよね」 笑う。「僕は父さんが怖い」
 ずっと、10年もほったらかしにされて、ある日突然。
「母さんは死んだ、って手紙をくれた。今年の春だよ。そんなの10年前に知ってたよ。新聞にだって載ってた。でも……僕は母さんが死んだ、って父さんから初めて聞いて、初めてわかったような気がした」
 レイの脳裏に、音もなく涙を流す少年の横顔が蘇る。
「母さんが死んだその場所に来い、って。言うんだ。それで、来た。紫色のロボットを見せられた」
 初号機……
 レイが息をのむ。あの恐るべき試作機に乗って、帰らなかった人がいたのは話に聞いている。
「それで僕に、これに乗れ、って言うんだ」
 レイはペットボトルを取り落とす。驚愕に目を見開く。
「そ…」
「僕が乗らないと、そのロボットは封印? されちゃうんだって。もちろん僕は」
 断った。
 父さんの仕事なんか知った事じゃない。クビにでもなんでもなればいい。でも、その後で。
「これに乗るって言えば、ここに住んでもよかったの? って訊いたんだ」
 父さんに。父さんは答えた。
 ――どこに住もうと、お前の自由だ。
「……それで」
 シンジは笑った。
「それだけで僕は父さんのこと、憎めなくなったんだ。だって父さんは」
 膝の上に乗ってもいいと言ってくれた。あの野良猫のように。
「碇君……」
「僕は綾波さんのこと、怖いとか、変だとか思ってないよ。難しいことはわからないけど」
 エントリープラグの中で苦しそうに顔を歪める君を、その中に消えた母を、その中にいたかも知れない僕を、そしてそれをいつも苦しそうに見つめる父を。あれに乗ることがどれだけつらくて、恐ろしくて、寂しいことかを。 
「少しは知ってるつもりだから。いつも思ってる」
 綾波さんが、できるだけ苦しみませんように。
 それは未だ知らぬ福音に似て。
「……ありがとう」
 初めて知った。
 誰かに自分を受け入れてもらえる、喜び。





「おはよう、碇君」
 教室の入り口で出会い頭に声をかけられて、シンジは目をまん丸くして驚いた。
「あ……お、おはよう」
 答えると、おさげの委員長はニッコリ笑って通り過ぎていく。えーと、今のは確か洞木ヒカリさん?
「おーっす碇ぃ」
「おはよーさん!」
 ぱん、ぱん、と背後から左右の肩を叩かれて飛び上がった。叩いたメガネの少年とジャージの少年はそのまま談笑しながら通り過ぎていく。
「え、あ、お、おはようっ」
 慌てて彼らの背中に返事を返した。ただの挨拶だ。とても自然な朝の挨拶の応酬。
 初めての。
「どうなってるんだろ……」
 と呆然としていたらまた挨拶された。ぎこちない挨拶を何度か交わして、目を白黒させながら席にたどり着く。


 おはよう。
 おはよう。
 おはよう。
 おはよう…………っ大丈夫。言えるわ、わたし。
 自分の席で真剣な顔でシミュレーションを重ねる綾波レイ・エヴァ零号機パイロット。行ける、と拳を握った。
 どの角度から碇君が現れてもごく自然に挨拶を投げかける自信がある。とっておきの笑顔(特訓済み・未完成)と共に、早朝から発声練習までしてきた。文化祭の帰り道にてそれまであった二人のわだかまりは解消できたわけで、いよいよここから、綾波レイの『普通の女の子化作戦』は発動するのだ。
 まずは挨拶。千里の道も一歩から。シャイな碇君のことだもの、むしろわたしの方が先手を取って今後の戦闘を有利に
「あ。綾波さん、おはよう」

 …………

 がたん、と隣の椅子を引いて座ったのは…………碇君?
「お……おは、よう」
 噛みました。

「うん、おは……って、綾波さん!?」
 すごい目で睨まれていた。
(……な、なんで?? 僕また調子に乗りすぎた!?)
 レイのあまりの剣幕に、無闇に自虐的発想に駆け出すシンジ。
「…………碇君…………いじわる」
 うるっ、とレイの赤い瞳が滲んで揺れたのを見て、今度はシンジが軽い恐慌状態に。
「ああああ綾波さん!?」
「あ――――っっ!! 綾波さんが泣いてる――!!」
 近くにいた女子が叫んで、なにぃぃぃぃ!! と今度は瞬く間に教室がパニックに。今度ばかりはその中心であるシンジに逃げ場はない。逃げ場はないのだ。


 かくして碇シンジの教室デビューと共に、綾波レイの青春補完計画は騒々しく幕を開けたのだった。
「……ぐす………………いかりくん……」 
「な、なにっ!? あの綾波さんっ、僕なにか悪いこと…」
「…………おはよう」
「……………………は???」 

 計画成就の日は近くて遠い。






おしまい








あとがき

 読んでいただきありがとうございます。庵です。
 某所にてコメディを数作発表させていただいている駆け出しですが、コモレビ。には二度目の投稿になります。
 前作『リフレクション』を読んで下さった方はお気づきと思いますが、今作は前作とほぼ同じ設定・似たプロットで書いたもので、実を言えば『リフレクション』のボツ作でした。
 本当はお蔵入りしていたのですが、先日読み返してみると、こちらの方がラブコメ色が強く、似たお話でも『リフレクション』とは違った味が出せているのでは、と思い直し。なかなか新作が書けない状況にもあったので、二番煎じの失礼を知りつつ投稿させていただきました。
 前回とは違ったご意見・ご感想をいただけたら、また少しでも皆さんのLRS分補給のお役に立てたなら幸いです。 






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