「ただいまー」

いつもの様にチャイムを鳴らし、いつもの様に妻の出迎えを待つ。
やがて控えめな足音がドア越しに聞こえて、

「…おかえりなさい」

柔らかい笑顔の妻が、僕の事を出迎えてくれる。

そう、それがいつもの僕の帰宅風景。
いつまでもなくしたくない、大事な僕の宝物だったのだけれど。

「うむ!出迎えご苦労!」
「……」

僕におんぶされたアスカが、僕の首越しに満面の笑顔で
しゅたっと手を挙げたのを認めるや、綾波は笑顔のままくるりと背を向け

「……」

ぷしゅーっ。かちょん。

ドアを閉じ、鍵までかけてしまった。
僕の宝物、3秒でロスト。

「こらあー!バカファースト!せっかくアタシがアンタの辛気くさい
バカ旦那をエスコートしてきてやったってのに、その態度は一体なによう〜!」

僕が抱えたままの足で、ガンガンと家の扉にケリを入れるアスカ。
際限なくヒートアップする彼女のテンションに反比例して、肺の中の空気が
ごっそり抜けるかの様な溜め息を吐き出す僕。
こうなる事は予測できてただけに、回避しきれなかった自分の不甲斐なさが情けない。

きょうはネルフ本部で、ちょっとした祝宴があった。
僕とアスカは、元チルドレンとしてそれにお呼ばれして…結果はまあ、この有様なわけで。

最近とみに元保護者の作戦部長に似てきたと言われる彼女。
はじめっからターボ全開で、浴びる様に呑むこと呑むこと。
自分の限界も考えないで際限なく呑み続けたあげく、へべれけに酔っぱらって、
気がついたら何処に出しても恥ずかしい大虎の出来上がり。

元エヴァンゲリオンエースパイロットにして、現在はネルフ本部付けの幹部候補生として
日々の業務に才覚を迸らせているアスカ。
そんなネルフきっての有名人と、これを機会にお近づきになりたいなんて考える人は、
普段だったら、それこそ履いて捨てるほど居たんだろうけど。

誰が呼んだか汎用人型決戦乙女、酒が入った彼女ってば、誰彼見境無く殴るわ蹴るわ噛み付くわと
きたもので、作戦局でも技術局でも持て余された結果、(何故か「責任取りなさいよ!」という言葉と共に)
僕に管理のおはちが回ってきて…

これ以上被害が広がる前にタクシー捕まえて放り込もうとしたら
「落とし物は最後まで責任もっと届けろー!」
と頸動脈を締め上げられ、ならせめて彼女のアパートメントまで送ろうとしたら
「女酔わせた挙げ句に家に上がり込もうだなんて、この馬鹿変態送りオオカミ!信じらんな〜い!」
と大騒ぎされ。
結局なだめすかして、自分の家に持ち帰ってきたわけなんだけど…。

見事閉め出しを食らってしまったと。
酷いよ、綾波。

結構真剣に落ち込んだ所で、

「甲斐性なしのシンジ様は、奥様に見捨てられちゃったんですってねえ。
日頃の躾けがちゃんとしてないから、こういう時にこういう目に遭うのよ。
だっらしないのぉ」

人の頭の上に顎を乗っけて、好き勝手言うアスカ。
…もう言葉も無い。

しかし、綾波も綾波だ。
あの細い足の何処から、あんな建設重機のハンマーみたいな破壊力を発揮できるのだろう?てほどの
アスカの猛攻は、冗談抜きでドアが変形せんばかりの勢いで。
過去何度となく、そのケリの餌食になっていた僕としては、間断なく続く人外の猛威に晒されている
自分の家のドアに、憐憫の情すらわいてしまうくらいのものなのに。
それを堂々、スルーする綾波。
今回のお怒りの程を想像するだに、怖気立つものがある。
フォローは、相当に覚悟を決めなきゃなあ。
それには何より、まず家の中に入れてもらわなくては話にならない。

「ねえ綾波」

聞いてよ、と僕が続ける前に、アスカの言葉が遮った。

「しっかたないわねぇ、ほれバカシンジ、回れ右。
今晩くらいならアタシんちに泊めてやるから」

そう言って僕の顔に手を回し、ぐきっと右回転させるアスカ。
さっきと言ってる事が違うじゃないか!と文句をつけようとした途端、かちょん、ぷしゅーと
音をあげてドアが開いた。

「…おあがりなさい」

おっじゃまっしまーす!と声を上げて、僕の背中から飛び降りるや、
さっさと部屋の中に入ってしまうアスカと、僕の顔を見ようともせず引っ込む綾波。

…こんな時どんな顔したらいいのか、僕にはわからないよ。

幾分うなだれながら部屋に帰った僕を出迎えたのは、

「おっかえんなさーい!」

水の入ったコップ片手に、へらへらしまりない顔であぐらかきかき、
リビングを我が物としているアスカと、

「………」

その対面に、完ッ璧に消えた表情で座る綾波。

白状すれば、これが初めての事っていう訳じゃないんだけれど。
だからって、何度経験しても慣れる事の無い、この修羅場。
逃げ出したいのをぐっと堪えて、深呼吸ひとつ、前に一歩。
歩いた!と、頭の中でリツコさんが褒めてくれた気すらする…無様だ、僕って。
そんな調子で、我ながらどんよりとぼとぼと歩を進めると、

「いつまでぼさっとしてんのよう!ほらさっさとこっち来て、座る座る!」

嬌声をあげながら、アスカが自分の隣をバシバシ叩いて指し示めす。
無論、そんなのに従ってしまったら、今晩の寝床はベランダの外に確定だ。
僕は黙って綾波の横に腰を降ろそうとして

「……お茶、持ってくるから」

逃げられた。

ほとんど燃え尽きて真っ白になってる僕に、さっきまでの狂態が嘘の様に
落ち着き払ったアスカが、こっそり耳打ちする。

「ボケボケ同士似た者同士で、仲良くおしどり夫婦やってんのかと
思ったんだけど、実はアンタのとこってカカア天下?」

…彼女に頭が上がらないのは確かだけど、アスカが余計なちょっかい
かけてこない限りは、大抵仲良くやってると思うよ。
ていうか、

「アスカ、本当は大して酔ってなんかいないだろ?」

あ、バレバレ?
ちろりと舌出してイタズラっぽく微笑まれたところで、いまさら嬉しくも何ともない。

「流石に飽きてきたからねー。脱出すんのの、ダシにさせて貰っちゃった。気づいてた?」
「なんとなくはね」

アスカのコップを分けてもらい、嘗める様に水を飲んだ。

「結局さあ。ネルフって何にも変わってないのよ。あんた達、早いとこ抜けて正解だったわ」

水が甘い。酒気にあてられてるのは、むしろ僕の方かもしれない。


彼女の懊悩は、僕らとは全く別の次元の所にある。

第拾六使徒戦で自爆して果てた、綾波の零号機。
汚染され、一度も起動しないまま使徒として殲滅されたトウジの参号機。
S2機関の暴走の果て、米第二支部もろとも消滅した四号機。

そして、第「拾八」使徒戦で、引力圏を脱出して消えてしまった僕の初号機と、
「その巻き添えを食らう形で」完全に破壊された、第伍から第拾参号機までの
マス・プロダクト・ナンバーズ。

この第拾八使徒戦をもって、エヴァンゲリオンシリーズ全拾四機は、
そのほとんどが地球上から姿を消した。

現在、唯一復元の見込みを持つとされるのが、大破しながらも、
コアだけは何とか無事だったアスカの弐号機。

少なくともチルドレンとしてはお役御免となった僕ら二人に対して、彼女はひとり、
いまでもひとりチルドレンなのだ。

「で、よ。乗る機体も無いチルドレンってのも、間抜けな話でねえ。
仕事が幾ら先進的って言った所で、ネルフの檻の外から出られる訳でもなし」

自ら幹部となることで、その檻を食い破ろうとしているのが、いまのアスカだ。
だがそれが、代償の割には報われない、孤独な戦いであろうことくらい、
鈍感の誉れ高い僕にだって察しはつく。

「何時までこんな不毛な道化芝居続けなけりゃならないのかって、たまにはげんなり来る事もあるわけよ」

僕から奪い返したコップをグビッと呷って、カラにするアスカ。

「ママー!お冷やおかわりー!!」

台所から聞こえてくる、がちゃがちゃがっちゃんという派手な破砕音。
僕はもう半べそだ。

「ま、そんなこんなでね。鬱憤の一つも溜まろうってもんなわけ」

と、いつのまにやら僕の横にすり寄ってきて、膝の上にのの字を書いてよこすアスカ。

「唯一の共犯者は、さっさとトンズラこかれやがりましたしねぇ?
アタシ、ずっと待ってたんだけどなあ…囚われのかあいそうなお姫様を
助け出してくれる、紫色のナイトのことを」

さらには、肩にしなだれかかって、蠱惑的な目つき。

「そのナイトと来た日には、万年貧血の偏食姫と、とっととくっついちゃってさあ。
待ちぼうけのアタシってば、気がつきゃとうとう嫁き遅れってわけよ。
この責任、どう取ってくれるのかしらぁ、無敵のシンジ様ぁ?」

耳元に唇まで寄せて、結婚前の僕だったら理性の一つ二つ飛ばしただろう、挑発行為の数々…
だが、唇に乗せてるのは、ただの恨み節というか、それ以前の言いがかりだ。
もちろんそんなことが

「…なにをしてるの」

臨界寸前の零号機に聞こえてるはずもない。

「ファースト」
「何」
「あんたの旦那って、からかうと面白い♪」
「…よく知ってるわ…」

僕はもう全べそだ。

そんな僕の情けない様をひとしきり堪能すると、満足至極な顔でにたあっと笑い、
投げキッスひとつ残して離れるアスカ。
綾波の顔は…もはや怖くて見えない。

かくして愛しき我が家のリビングに舞い降りた死に至る沈黙。
死ぬのは僕一人だけっぽいけど。

「…粗茶ですが」

合成音声だってこんなに無機質じゃないってくらい感情の欠けた声で、
アスカにズイっと湯のみを差し出す綾波。

「ありがとぉ♪」

いつもどおりの尻上がりへっへーん!なアスカ節で、それを受けるアスカ。

「…僕の分は?」

無駄なのはわかりながらも聞いてみる。

「アスカはあなたのお客。わたしのお客ではないわ」

涼しい顔で湯のみをすすりながら

「あなたとわたし。この家には二人分の蓄えしかないもの。
あなたのお客にあなたの分のお茶を充当するのは当然の事」

切って捨てる綾波。
覚悟はしてても、痛いモノは痛い。
おまけに

「…アスカ?」
「もう全部飲んじゃったわよ?」

桜色の唇でぺろりと口の端を嘗めながら、湯のみを逆さにしてほれほれと振ってみせるアスカ。
挙げ句、しずく一つのこってない逆さの湯のみを、かぽんと頭に被せられた。

僕はこの家の主のはずなのに。
一家の大黒柱様のはずなのに。
どうしてこんなに立場が弱いんだろう?

流石にハラハラと泣けてきたところに、すっと差し出されるものがあった。

細かく砕かれたロックアイスに、きつく冷やされたグラスが3つ。
それと…ミサトさんから結婚祝いに貰ったアップルブランデーのボトルだ。

さっきの破砕音の原因に気がついて、思わず目をしばたかせる僕の前で、綾波が、
ほんのわずかの間だけれど、小さく、奇麗に笑った。

「アスカはわたしのお客じゃないけれど、セカンドチルドレンの惣流アスカ・ラングレーは別。
チルドレン同士の久しぶりの再会、祝うには十分…そうでしょう?」

特にあなたは呑みが足りないの、丸見えだもの。
そう言って彼女が微笑みかける先には、

「アンタに気ぃ使われる様になっちゃあ、アタシもお終いよねえ!」

口は汚いが、どこか照れくさそうな笑顔で頭を掻くアスカ。



ああ、綾波は全部見通していた。
最初から全部わかっていたんだ。多分、僕がおぶっているアスカを見た、その瞬間から。
わかっていた上で、不機嫌に振る舞って。彼女の居場所を作ってやって。
…不機嫌の何割かは演技ではなかったかもしれないけど、そんな無粋な事はさておき。

彼女は僕以上に、アスカの気持ちを察してあげられていたんだ。
決定的に立場の分かれてしまった僕らが彼女にしてあげられることなんて、実のところ何も無い。
僕らの間に共通するのは、自分が何処にいるかもわからないままに戦い抜けた、あの暑い夏の記憶だけ。

辛い思い出、苦しい思い出、思い出したくない思い出、僕らの思い出は
ほじくりかえせば、いつだって凄惨な生の傷口を見せるけど、それだってアルコールで洗って
かさぶたにできるくらいには、僕らも大人になった。

だからこそ。
彼女にしてあげられることなんて何も無いから、ただせめてこうして集まれた時くらいには、
共通の思い出を肴に、美味しいお酒のひとつも振る舞おうと考えたんだ、
綾波は…僕の奥さんは!

そんなよく出来た奥さんに対して、駄目夫の僕はと言えば…
突然胸の奥から突き上げてくる様なおかしさと嬉しさに、ぶっと音を立てて吹き出していた。

「なによ突然、さっきまで不幸の標本みたいにしみったれた顔してた癖に、気っ色悪いわねぇ」

ワリと本気で引いてるアスカと、そんな僕を多分暖かく(生暖かく、では無い事を祈りたい)見守ってくれる、
僕の愛妻。

「いやさ」

息も絶え絶えになりながら、僕。

「こんな風に三人でお酒が呑める日がくるなんて思わなくって。勿体なくってさ」

いまからミサトさん呼んじゃおうか?3分で来るよ、クルマで。
やめなさいよ、本気で収集つかなくなるでしょ!明日の休み一日潰すつもり!?

盛り上がる僕とアスカのグラスにブランデーをたらす綾波。
彼女からマドラーを奪い取ってご返杯。

三人に等しくグラスが行き渡った所で、アスカがすっくと凛々しく立ち上がった。
僕らも続いて立ち上がる。
背は本来僕が一人大分高いはずなんだけど、目線の高さは三人、皆同じ高さに並んでる気がした。


「何に乾杯する?」

僕がおどけてリーダー、アスカに問うと、彼女は胸を張って

「あたしたち永遠のチルドレンの、永遠に続く友情と、美貌と、健康を祈って!」

祈り過ぎだよ。僕らは互いに苦笑しながら

「「「プロージット!」」」

ちん、とグラスを鳴らした。





送ったミサトさんも、大してアルコールに強くない僕と綾波に合わせてくれたんだろう。
このカルバドスは、どちらかと言えば強い林檎の香りを楽しむお酒で。
僕らは普段このお酒を、良い事のあった日に少しだけ紅茶へ垂らしたりする程度で、
ほんの少しずつしか消費していなかったのだけれど、きょうだけは特別。
遠慮なしにグラスを空けた。

時々アスカが洒落にならないちょっかいをかけては、綾波が半分本気で怒ったりすねたり。
なだめる僕に、アスカの突っ込み。つーんとそっぽを向く綾波に、フォローを入れる僕。
やってらんなーいとお手上げ!のポーズを取るアスカ。笑い合う僕ら。

ゆっくりと氷を溶かしながら、たわいもない話から突っ込んだ話、男としての僕を交えるには
少々際どい話まで。

僕らの酒宴は飽きる事の無く、結構な時間まで続いたのだけれど。

「あはは、アタシもう駄目だわ。眠い!」

ついにアスカが限界宣言。
普段から疲れてる所で、ちょっとはしゃぎ気味だったし、仕方ないよね。

「水、飲む?」

腰を浮かしかける僕を制する様に、アスカは

「ん〜、それよかシンジぃ、肩貸し…」

そこまで言って意識を手放し、僕の方に倒れ込んで…
きたところを、それを見越してた様な動きの綾波にキャッチされ、リビングのソファーに横たえられた。
厚手のタオルケットで梱包されて、これでアスカは朝までぐっすりだろう。

クスクス笑う僕に、綾波はちょっとだけ眉をひそめて

「何?」

と言う。

「別に。綾波は優しいなって思って」

ぷいっと顔を背ける綾波。

「…彼女には、山ほど借りがあるから」

顔を背けたままでそんなことを言う。

「一度に全部返そうと思ったら、借金のカタにあなたをもって行かれるから。
だから、返すの。少しずつ」

利息が凄そうだね。

正直、あまり悪い気はしないでいた僕のほっぺたを、綾波が無表情につねりあげた。
酔って痛覚が麻痺してる上、彼女の指はこんなにも華奢なのに、ひねり上げられた頬は
涙がにじむほどの痛みを僕に訴えてくる。

「色男を気取るつもりなら、わたしにも考えがあるわ」

……。

「ごめんなさいは?」

ごめんなさい。

そっと指が離される。
離された頬を彼女の指が撫でると、膝の間に、彼女の頭が落ちてきた。

「溜まったツケは…あなたに肩代わりしてもらうことにするわ…」
「いま、どのくらい溜まってるのかな?」
「彼女があなたの事を『バカシンジ』って呼んだ分だけ…」
「それじゃ、気をつけないとこれからも溜まってく一方になっちゃうね」
「そう…だからあなたはわたしに返し続けて。全力で…」

呟く様に言うと、綾波もまた、小さく寝息を立てはじめてしまった。
僕はその後も随分と長い事、彼女の指通りの悪い髪の毛を撫で続けて夜を過ごした。



明くる朝。
頭痛いのソファーが固かったのなんのとギャースカ騒ぎながら起きだしたアスカは、
しっかり朝食をたかってから、上機嫌で帰って行った。

「さて、僕らはどうしようか?」

アルコールの残り香を、少し濃いめのブラックコーヒー(綾波の趣味=リツコさんの趣味のマンデリン)で
追い出しながら、綾波に聞く僕。

「碇君には…きょう一日使って、昨夜の借りを返してもらう事にするわ…」

覚悟はしていたから、お手柔らかにね?と僕は返す。
それは難しいかもしれない。わたし、手加減知らないもの。

「…そうなの?」

そう、綾波は有言実行の人。
ちょっぴり怯えが入る僕に、

「セカンドが昨日あなたのことを『バカシンジ』って呼んだのは47回。
そうセカンドに呼ばせたのは、そのまま全部あなたの負債。
だから払ってもらうわ。今日中に全部。じゃないと負債、溜まる一方だもの。
…異議の申し立ては受け付けないから」

バカ碇君。

そう告げる綾波の笑顔は、見惚れるほどに奇麗で透き通っていた。




+おわり+



■TOP