白魚の様な指、なんて表現がある。
綾波の指のことを名指しで呼ぶかの様な表現だと思う。

実のところ、少し前までの綾波の指は、女の子らしく華奢な作りではあったけど、
同時に、言うほど綺麗な指でもなかった。

理由は至極簡単で…当時の彼女は、あきれるほど自分のことに無頓着な人間だったから。

健康のことなんてまるで考えてない、ぞんざいで大雑把な食事のスタイル。
ビタミン、ミネラル類は錠剤で賄い、カロリーは軍用の簡素なビスケットで補充。
学校の無い日などは「お腹、空かないから」などと言っては、水だけで過ごしたりもしてた。
加えて極度の偏食に、(これは綾波のせいばかりではないのだけれど)不規則な就寝サイクル。

別段指に限った話ではなく、彼女はいっそ病的と言っていい線の細さをしていて…
ネルフから開放された後も自分を蔑ろにし続ける彼女のことが、僕はすごく嫌いだった。

一度そのことで、彼女を本気で怒鳴りつけた。

「あなたには関係のないことだわ」
「関係なくなんかないよっ!」
「チルドレンの登録は既に抹消された。私たちが揃って戦列に並ぶことも、もう無い。
あなたが私の健康を気にする積極的な理由は、何処にもないはず」

とりつくしまも無かったけど、僕は諦めなかった。
多分、その時の僕は意固地になってたんだと思う。
自分でもよくわからない理由で。


ある日、彼女に自分の弁当を押し付けた。
彼女は最初断った。それでも押し通した。
最初はほとんど手をつけないまま、返された。それでも押し付けた。
彼女は迷惑そうな顔を隠そうともしなかった。僕は気にしなかった。

自分勝手、身勝手極まりない僕の行動だったし、当時の彼女が迷惑に思ってたのも間違いないと思う。
それが何時の頃から変わっていったのか、正直なところ、僕もほとんど覚えてない。

でも。

まったく手のつけられないままの日が続いていた弁当箱だったのに。
ある日、返されたお弁当の中身は、いつもより少しだけ減っていた。

ゆっくりとしたスパンでそれが繰り返され、ついにはカラの弁当箱が洗って返されるようになった。

風邪をひいて学校を休んだある日のお昼、彼女が家へとたずねてきた。
「お弁当、貰ってないもの」
僕は少しだけ呆れたけど、その日の彼女は僕と一緒におかゆを食べた後も、中々帰ろうとはしなかった。

やがて僕らは学校の屋上で並んで昼食を摂るようになり、そう間を置かないうち、彼女は夕食も
僕の家で食べるようになった。

学校の帰り道、ネルフの帰り道、僕らは一緒に商店街に寄る様になり、ああでもない、こうでもないと
食材を吟味しては、肩を並べて部屋へと戻った。





ある日の午後、僕は彼女に校舎裏へと呼び出された。
俯きながら、カラになったお弁当を僕に渡した彼女は、しばらくもじもじと居心地悪そうにしてたんだけど、
突然意を決した様に顔を振り上げるや、

「これからもずっと…碇君のご飯を、食べさせてください…!」

使徒に相対したかの様な、凛々しい顔で言った。


自分でも脳の回転が回らなくって、

「…それってぷろぽーず?」

言ってしまった僕の頬には、真っ赤な顔の綾波の平手が打ち下ろされたのだけど。


しばらくあって。
ミサトさん、アスカとの同居は、ここに至って綾波を加えることになった。
転居の理由は、情操面での発達著しい彼女を、ひとり幽霊団地にかくまう理由など何処にもないからという、
人道的には酷く正しく、ネルフ的には何の意味も持たないもの。

それでも結局申請は通り、綾波はコンフォートマンションのミサトさんの家へ。
そして、ついでと言ってはなんだけど、流石に女三人男一人での同居というのは流石に問題なので、
僕はひとり、マンションの隣の部屋に引っ越すことになった。

最初は奇妙な寂しさと開放感とに戸惑ったものの、やがて夕食時には全員が僕の部屋に集まる様になってしまったし、
綾波に至っては、夕飯をつくる作業から、寝るまでの間をずっと僕の部屋で過ごすなんてことも珍しくなくなった。

朝は流石に一緒じゃなかったけど、相変わらず僕は綾波の弁当を作り続けていた。

以前はもっとこう、「とりつくしまもない」子だった彼女は、このくらいの頃から
随分と「はっきりした」女の子になった。

主張が無い訳ではけっしてなく、嫌な事は嫌だと言う。
ついでに、嫌味のひとつもこなせる様になっていた。

たとえば、アスカあたりに言わせると、当時の僕は「野良猫に餌を押しつける猫男みたいでキモかった」らしい。

「挙句、本当に餌で釣るなんてサイテー。女の事なんだと思ってんの?
生活感のないところにつけこんで、自分の自由になるなら誰でもよかったんじゃん!」

これを綾波に言わせると

「自分が享受して当然のはずだった権利を、取り上げられたと思って八つ当たりしているだけ…
トンビが油揚げをさらわれたということ…逃した魚は大きかった…自業自得だわ」

となって、その場に二人が居合わせた日には、使徒直上会戦もかくやってほどの大騒動が巻き起こる。

そんなことも辞さないのが、当時の綾波だった。


好きな事も好きだと言う様になった。
彼女は僕に、僕以外の人にも、ほころんだ様な笑顔を見せる様になった。

ミサトさんの洗車を手伝おうとして、頭から水を被って、しょぼくれた顔を見せたりもした。
それを見て彼女のことを指差して笑った僕、アスカ、ミサトさんを、水圧全開のホースで
追い掛け回したりする茶目っ気を見せる様にもなった。

タンスの端に小指をぶつけて半泣きでしゃがみこんだり、寝ぼけてベッドからコケ落ちて
頭を打ってウンウン唸ったり、普通の人なら誰でも一度くらいはやってそうな(けど、それまでの
彼女にはおよそ似合わない)お約束的なボケの姿まで見せてくれるようになった。

今の彼女を見たら、当時の彼女を知っている人は驚くだろう。
今の彼女しか知らない人は、当時の彼女の姿を想像できないだろう。

僕は自分のエゴにまかせて、彼女のことを変えてしまったのではないか?
僕がそう聞いた時の彼女の顔は、昔の彼女を彷彿とさせるほどに冷たいものだった。

いわく「見くびらないで。わたしはわたし。あなたが望んだばかりではないわたし。
あなたのずるくて臆病なところ、全部見透かしている。それがわたし。いままでも
あなたのことを散々に傷つけてきた。これからも間違いなくあなたを傷つける。
身勝手で、自分のことしか考えてない。それがわたし。あなたの見てきたわたし」

正直、彼女の口からその言葉を聞いたときには、膝が笑ってしまうほどの
ショックだったのだけれど。

でも。

「だけど。あなたの優しさ。あなたの心遣い。あなたの暖かさ。わたしは、その何割も知らない。
それがわたし。あなたのことを何も知らない、そのことに気付かされては愕然としてしまう、
それもわたし。だから」

これからも、わたしの事を、あなたが変えていってくれるなら、わたしは嬉しい…。


彼女は、僕にすがりつくようにして、そう言った。
僕が彼女と籍を入れたのは、それからしばらく経ってからのことだと思う。


さて。
前置きが長くなってしまったけど、彼女の指が健康的な「白魚」になったのは、比較的最近の話だ。
何故なら、今の彼女の栄養管理は、僕と彼女自身の手によって、きっちりかっちり行われているから。

色の白いのには変わらないけど、儚げな雰囲気も変わりはしないけど、彼女を覆っていた不健康な気配は、
今はもうすっかり霧散して、影も形も残ってない。

肌も綺麗で、艶々としている。
髪の毛の手入れが下手くそなのだけは、いつまで経っても直らないのだけれど、それ以外は
何処に出しても恥ずかしくない、自慢の奥さんだ。


で、その自慢の奥さんが

「…ただいま、綾波」
「…おかえりなさい、碇君」

家の前でしゃがみこんで、野良猫に「指」を与えているという、この光景は何だ?

「猫に…指を食べさせているの…」
「普通、猫は指を食べないんじゃないかな…」
「そう?」
「そうだよ…」

なんというか、どっと疲れ。

綾波の足元の野良猫…子猫というには少し大きく、成猫にはまだ少し遠い、言うなれば少年?少女?猫。
これが、一心不乱に、なまり節をカジるかの様に、綾波の指にしゃぶりついている。
これをどう表現したものやら…。

「指って美味しいのね…」
「そういうわけでもないと思うんだけど」

だって、おかしいよね?
別段味がするわけでもないものを、そんな食べ物みたいに夢中になって頬張る猫なんて。
いくら綾波の指が白魚の様だと言ったって、現実問題、魚の味がするというわけじゃないんだし。

「本来の親放れの時期より前に、親から引き離された猫」

綾波が、朴訥に語りだす。

「このくらいの猫には、まだ甘えたい衝動が残ってる場合あるそうだわ…」

話が見えない。
見えないけど、なんとなくわかった。

「それって」
「わたしの指…母親の胸と思っている…そうなのかもしれない…」

指にむしゃぶりつくばかりでもなく、彼女の指の付け根に必死に自分の小さな手のひらを押し付ける猫。
あるいはそれは、小動物特有の、搾乳の行為なのかもしれない。

「じゃあ、綾波は、この子の臨時のお母さんというわけだ」
「代替品…いまだけの代わり。わたし、この子のお母さんにはなれないもの」

彼女の視線が妙に冷めてる。
やれやれ、変なところで頑固なんだから。

「夕飯の材料、買ってきたんだ」

僕は手の中のスーパーの袋をがさごそと漁って

「猫にもご相伴」

メザシを一匹、ひょいと猫の子の目の前に出した。
最初は目を閉じて綾波の指に夢中になるばかりで、気にもとめなかった猫だが…やがて匂いにつられたか、
はっとメザシを視界に入れるや、僕の手からひったくる様な勢いで噛み付き、取り上げ、そこではじめて
僕という存在に気付いたらしく、ぎょっとした目を見せると、驚くべき身の軽さで逃げ去ってしまった。
目を見張るような、本当に一瞬の動作。

「あ…」

綾波が所在無さげに手を伸ばした頃には、彼はもう茂みの中に姿を消した後だった。

「現金な奴だね。あれならきっと長生きするよ」
「……」

綾波が小さく頬を膨らませて、いかにも不満げに僕の顔を睨みつける。

「そんな顔しないで。まずは、ほら」

彼女の手をとって

「戻って、消毒して…それからご飯にしよう?」

彼女の指に、表立った怪我のようなものは見当たらなかったけど、それでも野良猫に
(多分随分と長いこと)指を齧られていたことには違いない。

「ここまでは必要ないと思うわ…」
「野生の生き物をなめないの。化膿とかしたら大変だよ」

なんでかしらないけど、相変わらずこの種の消毒薬や怪我の治療薬は充実してるこの家。
(いつも包帯が冷蔵庫で冷えてる理由は、いまだにまったくわからない)
猫の子には悪いけど、ここはしっかり洗浄、そして消毒が必要と思った僕の手で、
彼女の指は包帯でぐるぐる巻きにされていた。
それはもう、水仕事は無理ですってくらい、厳重に。

「夕飯の準備は僕がやるから。綾波は、お皿とかお願い」
「……」

彼女が黙って僕の言うことに従うのは、本当に言うべきことがない時以外は、大なり小なり拗ねてる時だ。
サラダにするパプリカを流水に晒しながら、僕はつぶやく様に言った。

「綾波は、お母さんを求められると、不思議とそれに応えちゃうよね」

かちゃん、と背中で皿が鳴った。

「でもさ。求められるまま、母親が与えられてしまうっていうのも、善し悪しだと思うんだ。
あの猫も、自分で餌とって、生きてかなきゃならないんだから」
「わたし、悪かったの?」
「そんなことないよ。でも、そうだね。僕は猫に嫉妬してたのかもしれない」

また背中で皿が鳴った。

「…母親を取られると思ったの?」
「綾波は僕のお母さんじゃないから。むしろ、僕は綾波を取られるのが嫌だったのかも」

「…子供なのね」
「うん、そうだね。甘えさせてくれる?」

鍋つかみで鍋を持って、温まったシチューをもって振り向く。

「…この指じゃ無理だわ」

憮然とした綾波の顔。
そりゃそうだよね。だって、スプーンも持てないほどに指を包帯でぐるぐる巻きにしたのは、僕本人だもの。

「それじゃあ代わりに、綾波が僕に甘えてくれるってのはどうかな」

彼女のお皿にシチューをよそいながら、言ってみた。

「ひとりじゃ食べられないでしょ?あーん、ってやってみるのは、どうかと思ったんだけど」

数瞬の後、ぼっと赤くなる綾波の顔。

「わ…わたし…わたし…わたしわ…」

こういうところ正直で、綾波は本当にかわいらしいと思う。
テンパってる綾波を前に、僕はくすくすとこぼれてしまう笑いを押さえつけるのに苦労していた。

彼女はいつも、頼まれてもいないのに母親役を求められる。
僕の父の母親、僕自身の母親、アスカの母親であったこともあれば、人類の母親を求められたことすらあった。

もしかしたら、彼女が少女だったあの頃の、ぼろぼろだった指。
あれは彼女なりの抵抗の表れだったのかもしれない。
自分は自分のものだと。誰とも知らない貴方達の母親役を押し付けられるのなんて、まっぴらごめんだと。
僕の勝手な想像だとは思うけど。

でも、いまの彼女の指は、優しくて、きれいで、不思議と包容力があって…
例えるなら「お母さんの指」そのものだ。

彼女がそれを望んだか否かはわからないけど、彼女の指は今の指。
なら、彼女の指をそうしてしまった僕のすべきことは、この生活を守って、彼女の指がいつまでも
今の指でいられるように努力することなんじゃないかな?

そんな埒もあかないことを、未だに固まってる綾波の口元に、シチューのスプーンを「はい、あーん」と
運びながら考えた。


食事が終わったら、彼女と二人で、さっきの猫を探しに散歩にでも出ようか。
なんだかあの猫、他人のような気がしなかったから。
白魚の様な指、というわけにはいかないけど、指のようなメザシなら、まだ少し在庫がある。
きっと彼(彼女かもしれないけど)も気に入ってくれると思うんだけど、どうだろう?

ちょっぴり暴走気味の零号機が再起動したら、そう声をかけてみようと思った。




+おわり+



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