「碇君」

なんで彼女は僕のことを未だに名字で呼ぶんだろう。

「何?綾波」

…彼女を旧姓で呼ぶ僕も僕なんだけど。
気恥ずかしいってわけじゃないけど…随分長いことこれでやってきちゃったし、
今更直す方こそ気恥ずかしくって、そっちの方が不自然になっちゃってる僕ら。
そんなことはさておき。

「浮気、してるわね」
「…してません」
「嘘」
「ついてません」

僕、思わずため息。
彼女の行動が突飛なのは今にはじまったことじゃなくて、この「浮気してるでしょ」
発言なんかは、月に一度はくりだされるから…流石にもう慣れちゃった。

浅葱色のフレアスカートに、薄紫のカーディガンを合わせた綾波は、
ひいき目抜きで、貞淑な若奥さん、という感じ。
でも、その彼女が、居間でぴしりと正座して、

「そこ、座って」

と、気持ち釣り上がった眉毛で告げる姿は、どちらかというと
悪戯をした子供に説教をくれようとする母親みたい。

…僕は悪戯なんかしてないし、綾波に怒られる様なことをした覚えはない。
無論、今回の綾波の「浮気してるでしょ」疑惑だって、思いっきり濡れ衣だ。

なのに、僕はなんだって、綾波の前で居心地悪そうに正座してるんだろう?

「……」
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「………………」

しかも何だかすっごい気まずい。
僕、何にも悪いことしてないはずなのに、半眼気味の彼女にじっと見つめられてると、
何故だか罪の意識にかられて、目を逸らしたくなってくる。

けど、だけど、ここで負ける訳にはいかない。
だって、僕は何もしていない。
感情少なげに見える僕の奥さんが、その実すごく嫉妬深くて傷つきやすいの、
僕はよく知ってるもの。


なんだか間抜けで、そのくせ妙にピリピリとした静寂が長いこと続いて…

「どうしてそういうこと言うの?」

綾波が、不意に視線を落とした。
微かに目元に光るものが見える。

僕の罪悪感、なんでかいきなりリミットブレイク状態。
OK、落ち着いて僕。僕は何にも悪いことしてない!

「どうしてもこうしても、僕は浮気なんかしてないもの!」

あ、少し大きな声が出ちゃった…肩をビクッと震わせる綾波の姿に、
僕の罪悪感はレベル3ゲージマックス状態。

…気まずい。気まずすぎる。
何が気まずいって、うつむいちゃった綾波、今度は僕のことを全然見てくれない。
じっと黙ったまま、正座で膝をぎゅうっと握りしめて、小さく震えてるばかり。
声、かけたいんだけど。
肩を抱いてあげたいんだけど。
なんというか、いまはまだ、何もできない。
だってまだ、誤解を解いていないもの。

僕主観で永劫にも近い時間が…具体的には足の感覚が無くなるくらいの時間が…
流れて、綾波は突然、ぽつりと呟いた。

「碇君の服。セカンドの毛がついてた」

「へ?」

アスカの毛?
アスカの毛って、髪の毛かな?
うーん?

「気のせいでなくって?」

思わず言っちゃう僕。だって、心当たりは全然なかったから。
アスカとは、まあ…昔は色々あったけど、今も頭の上がらない存在だけど、
僕の奥さんは綾波で、綾波は、アスカが僕に近づくことを凄く嫌がるから、
アスカにもその事は話して、なんというか、あまり夫婦間に波風立てる様な
イタズラはしてくれるなと、お願いしてある。
この種のイタズラは彼女の最も好みそうな所なので、お願いを通すのには
非常に苦労した…苦労はしたけど、綾波の言う「浮気」に相当する様なことは
何一つしてない。これだけは誓って言える。

言えるんだけど…さっきの「気のせいじゃなくって?」は、綾波的に
僕の苦し紛れの言い逃れ、ないしは開き直りに聞こえたらしい。

ばっと膝を立てて僕との距離を詰めるや、平手一閃。
僕の頬がバチーン!といい音を立てた…痛い。痛いよ綾波。

「どうしてそういうことを言うの?」

いまや綾波の表情は、真っ赤な怒りと嫉妬に彩られていて…
それでもどこか、おっかなさよりも可愛らしさの方が先に来ちゃうのが、
綾波の表情筋の限界だとは思うんだけど。
そんなことはさておき、

「だって本当に心当たりないんだもの!綾波は僕のこと信じてくれないの!?」
「赤木博士は言ったわ…こんな時の男の言葉なんて何一つ信じちゃ駄目…
信じるに足るのは確固とした状況証拠のみよ…と…」
「僕の言う事は信じてくれなくても、リツコさんの言う事は聞くんだね…」
「だって、証拠があるもの」

そう言って綾波が取り出してみせたのは…細くて、長くて、少し癖のある、
艶つやとした、長い一本の蜂蜜色の髪の毛。

「…アスカの髪の毛だ」

思わず呟いてしまった僕の頬にもう一発、綾波のビンタが振り下ろされた。

「なんで見ただけでわかるの!」
「そりゃわかるさ!そんな立派な長い髪してるの、僕の知り合いじゃアスカだけだもの!」
「…理由になってないわ」
「アスカとは付き合いだけは長いから…綾波だって知ってるじゃないか」

14の頃からずっと同居して、最終的には彼女は、僕に下着の洗濯までさせていた。
この頃の話をすると、綾波はやたら寂しそうな顔をした後で、「後悔先に立たず」
という名の彫像と化して果てしなく落ち込むので、僕らの間ではタブーになってる
わけなんだけど。
事実は事実として言っておかなければならない。

事実は事実として…ん?んん?

「…綾波」
「何?」
「ごめん。それ、やっぱりアスカの髪の毛だ。心当たり、あった」

綾波のウルフヘアが、ぶあっと猫の尻尾の様に膨らむのを、僕は見た。
このままでは、いままでで最大級のビンタを食らって…僕は無実の釈明をする前に
ノされてしまうことだろう。

そうなるわけにはいかないから。
僕は彼女よりも一瞬だけ早く動いて、彼女の細い手首をそっと捕まえた。

「聞いて、綾波」

互いの吐息のかかりそうな距離で、僕は言う。
綾波の目からは、怒りの色は一切消えてなかったが…理性の色も、そこにはあった。
少なくとも僕を処断するのは、話を聞いてからでも遅くないと思ってくれたらしい。

はあっと息をついて彼女の手を離すと、僕は座り直し…流石に正座は疲れたので
あぐらで…事の顛末を語ることにした。

「きょう、アスカと本部で一緒になったんだ。あの長ーい本部直通エスカレーターで」
「………」
「アスカ、おろしたてのヒール履いてて、浮かれててね。昇りのエスカレーター
なのに、僕の顔見ながらてってってーと後ろ向きに駆け上っていって…コケちゃったんだ」

さっきまでの気勢はどこへやら、綾波の目がまんまるになる。
彼女がこんなに表情豊かだなんて、どれだけの人間が知ってるんだろう?
僕はちょっぴりだけ吹き出しそうになりながら、それをぐっとこらえて、話を続けた。

「あそこのエスカレーター、絶対おかしいよね。あんなに長いのに、事故防止の
ための用意、なんにもされてないんだもん。アスカが凄い顔して、僕の方に
降ってきた時には、死んだかと思ったよ」

うーん、思い出しただけで、あのときの恐怖が蘇ってきた。

「落ちてきたアスカは受け止められたんだけどさ。結局、そのまま二人とも
コケ落ちちゃって…半分くらい滑り落ちたところで、やっと止まって。
あ、アスカには怪我なかったんだけど」

アスカを抱きとめて、僕は下敷きになっちゃったから…
髪の毛はきっとそのときついたんだ、きっと。うん。


と、そこまで言ったところで、先の転倒アスカよろしくな勢いで、綾波が降ってきた。
いや、目の前にいたんだから、降ってきたって表現はよろしくないんだろうけど…。
とにかく、凄い勢いでぶつかってきて、気がついたら僕は綾波に馬乗りで押し倒されていた。

「…あの、綾波、サン?」
「碇君!!」
「はいっ?」
「怪我は!?」
「えっ?」
「怪我は!?無いの!?大丈夫なの!?」

「あ、うん。アスカは全然ピンピンしてたよ。人の事クッションにして、
相変わらずちゃっかりしてるよね」
「碇君の方!!」

…あまりに必死な綾波の気勢に押されて、一瞬思考が飛んでしまった。

「…僕?」
「あなた!」

「うん、うまく受け身が取れたみたいで、大した事ないよ。少し背中が痛いくらいで」
「少し?」
「うん、少しだけ」

流石の僕も、綾波が僕の身を按じてくれてるのくらいはわかった。
だから、心配かけない様に「少しだけ」を強調したつもりだったんだけど…。

僕は何もわかってなかった。
綾波にとっては、「少しだけ」は問題じゃない。「少しでも」が問題だったのだ。

「見せて!」

言うなり、綾波は僕のシャツのカラーに両手をかけて、一気に左右に引き裂いた!

「な、何するんだよっ!」

シャツを台無しにされたことより、綾波の突飛すぎる行動と、彼女の前に
心構えも無しに上半身裸を晒してしまった羞恥心とで、僕の方が一瞬パニックに
なってしまう。

「いいから!」

そんな僕の気持ちなんて知るかとばかりに、もはやズタズタの布切れになった
僕の上着を手早く排除していくと(彼女のどこにそんな力があったというのだろう?)
綾波は真剣極まりない顔で、僕の胸、肩、首、背中に、その白くて細い指を
ペタペタと這わせて、僕の身体の異状を調べた。

「やめてよ綾波…恥ずかしいよ…」
「私は恥ずかしくないわ…少し黙ってて…」
「そんなこと言っても…汗もかいてるままだし、臭うでしょ?」
「碇君の匂いしかしないわ…いいから黙って…」

もうこうなったら気の済むまで好きにしてもらおう。
僕が諦観の境地に達した時、胸の中にポスンと軽い感触が落ちてきた。
綾波の頭だった。
上半身裸の僕の胸にすがりつく様な綾波の姿が、そこにあった。

「触診による異常は認められず…筋肉の断裂無し。骨への異常なし。
擦過傷が少しあるけど…」

その擦り傷に、綾波のひやりとした指先が触れる。
それだけで消毒が済んだ様な気になって、僕は少しばかり倒錯的な快感に震えた。

「傷ももう乾いてる…良かった…碇君、なんともなかった…」

本当に安心しきった声で、胸の中の綾波が言う。

「…ごめんね」

思わず、謝ってしまっていた。

「…どうして謝るの?」

僕の胸に顔を埋めた綾波の顔は見えない。
というか…「どうして?」と聞きながら、僕の弁明が済むまで見せる気はないのだろう。

「綾波に、黙ってたから。家に帰ってきた時に、真っ先に言えば良かったのに」

そんな間もなく浮気者呼ばわりされてた気もするけど、それ以前にアスカ絡みの
トラブルに慣れきってしまって、この程度の怪我なんでもないと、すっかり忘れてた
僕が悪い事には違いない。

「だから、ごめんね」
「…怒ってないわ…」

顔を埋めたままの綾波が言った。

「うん、だけど、ごめん。それと、ありがとう」

彼女の、少しごわついた髪の毛に指を通しながら頭を撫でてやると

「…碇君は卑怯だわ」

そんな声が聞こえた。
卑怯って綾波さん、あなたそんな。

「…僕ってそんなに信用ないの?」

思わずまろびてた嘆きの声は、我ながらすっごく情けなかった。

「…ええ…」

僕、呆然。
自分では、奥さんに負けない立派な旦那になろうと、結構頑張ってた
つもりなんだけど、駄目?駄目なの?全然足りてないの?

「足りてないわ…だってあなたは、いつも私を、こんなにも不安にさせるもの…」

ぎゅう、と僕を抱きしめる綾波。

上半身裸で少しだけ寒かったけど。
ついでに言えば、打ち付けた背中はやっぱり少しは痛くて、締め付けるように
抱きついてくる綾波の腕の感触も、やっぱり少しは痛かったんだけど。

こういう時は、彼女の気が済むまで好きな様にさせてあげるのがいい。
気が利かないと定評のある僕でも、流石にそのくらいはわかってた。



随分と長い事、抱き合ったままでいた僕ら。
でも、そんな僕らの甘い時間は、

「…碇君」
「…何、綾波?」
「…なんで碇君は上半身裸なの?」
「…零号機が暴走したからだよ」

…能天気な彼女の頭に振り下ろされた、ちょっぴり強めの僕のチョップで終わりを告げた。




+おわり+



■TOP